聖書を開こう 2016年10月13日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の前での謙遜(1ペトロ5:6-7)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 謙遜が美徳であることは、日本人にとってほとんど共通の理解であると思われます。

 実際に日本人が、その美徳を実践しているかどうかは、もちろん別問題です。しかし、謙遜を美徳として意識しているか、それとも謙遜を美徳と意識しないかは、大きな違いです。

 もっとも、同じ謙遜っといっても、日本人にとってさえ、その中身はまちまちです。

 たとえば「自慢しない」という意味で「謙遜」という言葉が使われます。それはその人の謙虚さから出てくる場合もありますが、「出る杭は打たれる」ということを恐れて、人前で自分の功績を語りたがらないということもあるでしょう。

 あるいは、ほんとうにそうは思わなくても、「つまらないものですが」とか「お役に立てるかどうかわかりませんが」とか、「まだまだ修行が足りません」とか、自分を卑下することがあります。それも一応は日本的な謙遜な態度です。

 さて、きょう取り上げる聖書の中にも「自分を低くする」という言葉が出てきます。「謙遜」と訳してもよい言葉です。果たして聖書は「謙遜」ということをどうとらえているのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 5章6節と7節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

 前回取り上げた個所には、若い人たちに対して、互いに謙遜を身に着けるようにという勧めがなされました。そして、そこでは、その対になる言葉として「高慢」が戒められていました。きょうの個所はその続きです。

 きょうの個所でも、身を低くすること、謙遜であることがキーワードになっています。そこで、一つの問題は、この勧めの言葉が誰に対する勧めなのか、ということが挙げられると思います。直前の5節では、「若い人たち」に対する勧めの言葉が語られていましたので、ここでもその続きとして、引き続き若者たちに対する勧めの言葉と取れなくもありません。

 しかし、6節以下の文脈で読むと、必ずしも若い人たちにたいしてだけ語られているようでもありません。信仰にしっかりと踏みとどまる必要も、また信仰のゆえに苦しみを経験することも、これは若い人たちに限ったことではなく、この手紙の受取人全般が経験していることです。

 前回、5節を取り上げたときに、あまり詳しくは述べませんでしたが、5節は若者に対する勧めであると同時に、5節後半では、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」という言葉で、若者のみならず、長老たちも謙遜を身に着けるべきであることが述べられました。それに続く6節の勧めの対象は、5節後半で言われている「皆」の者たち、すなわち、若い者たちも長老たちも、ということです。もちろん、ペトロが言いたかったことは、若い人たちと長老たちだけに限定しているのではなく、この手紙の受取人全員に対して、「自分を低く」するようにということでしょう。

 聖書がいう「謙遜」とは、言葉の意味からいえば、「低めること」にほかなりません。問題は誰に対して自分を低めるのか、ということです。

 先週の個所では、「互いに」謙遜であることが求められました。人間同士が互いに謙遜であること、それも、確かに聖書がいう謙遜です。しかし、互いに謙遜である前に、聖書の世界では、わたしたち人間が自分の身を低めなければならない相手がいます。それは、創造者である神に対して身を低くすることです。

 もちろん、それは聖書の世界では自明のことです。造り主である神が人間に劣っているはずはありません。無限、永遠、不変であられる神に対して、人間は限りがあり、時間に縛られ、移ろいやすいものです。そのこと一つをとっても神の前で身を低めるべきことは当然です。

 最初の人類、アダムとエバが犯した罪はまさにこの点にありました。

 「(この実をとって)食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」とそそのかされて、神のようになることを願うことの中に、罪の本質がありました。それ以来、何かにつけ、人は神に対して謙虚でいることができなくなりました。

 自分の力を過信し、大丈夫と思い込み、神に対して謙虚に助けを願うことをしない人間です。時には、どうにもならなくなって、苦しい時の神頼みはするものの、しかし、苦しみが過ぎ去るとき、あるいは自分の願い通りに事が進むときに、再び、神を忘れ、自分の力を過信してしまうのが人間です。

 6節の「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」という勧めの言葉と、7節の「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という勧めの言葉は、ただ2つの勧めを羅列しているように思われますが、実はそうなのではありません。

 神の力強い御手の下で自分を低くすることと、思い煩いを、何もかも神にお任せすることとは密接に結びついています。思い煩いを一切神の御手にゆだねることこそが、神の御前での謙遜にほかなりません。

 人は何かにつけ、自分で自分の思い煩いを握りしめ、自分でそれを何とかしようとして、神を忘れがちです。

 7節の後半には「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」とありますが、自分を心にかけてくださる神を心のどこかに置き忘れてしまいがちです。

 もちろん、神に頼ろうとしないのは、すべてが高慢から来ているとは限らないかもしれません。自分のことで手いっぱいになって、神のことを思い出すこともできないということもあるでしょう。確かにその場面だけを切り取って考えれば、そうに違いありません。

 しかし、もし、人間の限界と神に偉大さを普段から認め、神のみ前にいつも助けを求める姿勢で歩んでいるとすれば、神にすべてを委ねることに大きな抵抗を感じることはないでしょう。むしろ、いつも心にかけてくださっている神への信頼から、進んで神を頼りとすることへと気持ちが向かいます。

 聖書が求める謙遜とは、神に対して自分の分をわきまえ、神を頼って自分を委ねることです。そして、創造者である神に対して、このように自分自身を委ねることができなければ、人に対しても真の意味で謙虚でいることはできません。いえ、神のみ前に身を低めることができてこそ、互いに対しても謙遜にふるまうことができるのです。

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