メッセージ: 終末を意識した賜物の管理(1ペトロ4:7-11)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしの父はキリスト教徒ではありませんでしたが、晩年になって興味深いことを言いました。それは父が亡くなる3年前のお正月のことでした。いつもの年のように父は、集まった家族を前に新しい年の所感を述べました。
そのとき、漠然とした不安からか、世の終わりというものがあるような気がする、と言い出したのです。
それを聞いてわたしは、父も年老いて随分と弱気になったものだなあ、と思うと同時に、この世界がいつまでも続くものではないという漠然とした感覚は、神がすべての人に与えた感性ではないかと思いました。
きょう取り上げようとしている聖書の個所には、「万物の終わり」という言葉が出てきます。ペトロは万物の終わりが迫っていることを告げて、わたしたちにどんなことを促しているのでしょうか。ご一緒にきょうの聖書の言葉から学びましょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みします。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 4章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
ペトロはここで「万物の終わりが迫っています」と語り始めます。もちろん、何の脈略もなく世の終わりについて語りだしたわけではありません。先週取り上げた個所には、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければならない時が来ることが語られていました。
キリストを信じるがゆえに受ける理不尽な苦しみにも、やがては終わりが来て、すべてが明らかにされる時が来ることを暗示するものです。
その流れを受けて、ペトロは「万物の終わりが迫っています」と語ります。
この言葉は、主イエス・キリストがガリラヤで語られた最初の福音宣教の言葉を思い起こさせます。そのとき、キリストはこう語られました。
「神の国は近づいた」(マルコ1:14)
もちろん、キリストがおっしゃったのは「神の国」のことであり、ペトロが語っているのは「万物の終わり」のことです。しかし、神の国の到来と世の終わりは密接にかかわっています。
それは、さておくとして、このキリストの言葉を取り上げたのは、「近づいた」という表現を話題にしたかったからです。ペトロがここで語っている「迫っています」という表現とキリストが語る「近づいた」という表現は、実は翻訳の違いで、原文はまったく同じです。どちらの表現がより緊迫感をもって受けとめられるかは、個人差があるかもしれません。遥か遠くにあるというのでもなく、かといって、到来したというのでもない。しかし、どちらかといえば、こちらにかなり接近している状況です。
けれども、終末に対する緊迫の度合いが強くなればなるほど、残念なことに、この世での生活に対する関心がどこかに飛んで行ってしまいがちです。たとえば、明日、世界の終わりが来るとするなら、きょう種をまく意味はあるでしょうか。あさって終末がくるなら、来週締め切りの宿題をやる意味ははたしてあるでしょうか。どんどんと今生きている意味が見いだせなくなってしまいます。
そうであればこそ、ペトロは「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と勧めます。万物の終わりが近いからといって、今生きること、今していることの意味が失われてしまうわけではありません。
「思慮深くふるまう」というのは、熱狂的になり過ぎて、何が何だか分からなくなってしまうのではなく、自己制御された、健全な心でいることです。「身を慎む」と訳される言葉も、ここではほとんど同じような意味で使われています。そして、その思慮深いふるまいと身を慎むことの向かう先は、祈りであるとペトロは記します。
世の終わりに向かうこの時代を、健全に過ごすためには祈りが必要です。聖書がいう祈りとは、神の御心を願い求めることです。自分の心のうちにある願いを神に打ち明けながら、しかし、その願いを神の御心に近づけ、一致させることです。祈ることを通して、わたしたちは神の御心に沿った生き方へと導かれます。
さらにペトロは、万物の終わりが近づいているからこそ、何よりもまず、心を込めて愛し合うことを命じます。
主イエス・キリストはおっしゃいました。世の終わりの時には、不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると(マタイ24:12)。しかし、そうであればこそ、主を信じる者たちに求められていることは、世の終わりが迫っているこの時代に、いっそう深く愛し合うことです。不法と憎しみに満ちた世界を克服できるのは、キリストによって示された愛に生きることによってしか可能ではありません。
万物の終わりが近づいているから、そんなことをしても無駄なのではなく、かえって、万物の終わりが近づいているからこそ、いっそう熱心な愛をもって互いに仕え合うことが大切なのです。
さらにペトロは、それぞれに与えられている賜物の管理についても、この同じ文脈の中で取り上げます。普通に考えるとすれば、世の終わりが近いのであれば、賜物の管理など、どうでもよいことのように思われるかもしれません。しかし、ペトロはまったく反対のことを命じます。
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
ここには三つの大切なことが述べられています。第一に、人それぞれに神からの賜物をいただいているということです。みんなが同じ賜物ではないけれども、しかし、それぞれに神からいただいた賜物があるということです。
第二に、一人一人が神の恵みの善い管理者であるということです。管理するというのは、ただ所有しているというのとは違います。その賜物を必要とされているところで適切に用いることです。ただ持っている、用いないというだけではこの賜物を管理しているという事はできません。
第三に、その賜物は自分のためではなく。互いに仕えるために賜物を活用するということです。
それは決して他人に力以上のものを求めることではありません。それぞれが力に応じて働くときに、全体がもっともよく整えられるように、神は一人一人に賜物を与えてくださっています。
万物の終わりへと向かうわたしたちは、このようにして神の栄光に生きることが求められています。そして、そうできるようにと、神は一人一人に異なる賜物をお与えくださっているのです。
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