聖書を開こう 2016年9月1日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: キリストの苦難の意義(1ペトロ3:18-22)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書は誰が読んでもわかりやすいやさしい言葉で書かれています。もちろん、時代や文化の違いがあって、わかりにくい点があるのは、否定できません。

 それを言うのであれば、わずか百年前の明治の文豪たちの書いた小説でさえ、今の日本人には理解できない文化や習慣に満ちています。しかし、何が書いてあるのか全く理解できないということではないでしょう。

 書かれていることがらに同意できるかどうかは別として、聖書はほとんど平易な言葉で記され、内容もまったく理解できないほど複雑なことを伝えているわけでもありません。

 しかし、そうであっても、聖書学者でさえも解釈が分かれる難解な個所が聖書にはいくつかあります。実はきょう取り上げようとしている箇所もその一つです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 3章18節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

 番組の冒頭でも述べましたが、きょうの個所は、難解な部分を含んでいます。個々の文章自体は簡単なのですが、全体としてそれが何を意味するのか、また聖書のほかの個所が述べていることと、どう関係してくるのか、ということを説明しようとすると、とても難しい個所ということができます。

 もっとも、細かな点をわきに置くことができるとすれば、大筋で言おうとしていることは、それほど難しいことではありません。

 まず、先週取り上げた17節から、きょう取り上げる18節への流れを理解しておく必要があります。

 前回取り上げた個所の大きなテーマは、キリストを信じる者たちが、義のために受ける苦しみについてでした。ペトロは、信仰者が信仰のゆえに受ける苦しみの可能性を否定しません。そのことを想定して、それにどう備え、どう対処すべきなのか、ペトロは手紙をとおして指導しています。

 もちろん、指示を与えるだけで、手紙を閉じたとしても十分であったかもしれません。しかし、ペトロは指示を与えるとともに、キリストこそが義のために苦しみを受けた方として、その模範を示しています。

 キリストに従う者のうちの誰が苦しむよりも前に、キリストご自身が苦しみに打ち勝ってくださったということは、主イエスに従う者たちにとって、模範であり励ましです。

 しかし、ペトロは、キリストを単に苦難の先駆者として、わたしたちに示しているのではありません。キリストの苦難の意義をも示しています。もちろん、その苦難がわたしたち信じる者と無関係であるなら、それは意味のないことです。そうではなく、何よりもキリストが苦しまれたのは、わたしたちのためであったということがまず述べられます。しかも、それはわたしたちがその恩恵をいただくのに値するような者であったからではなく、正しいキリストが、罪のゆえに正しくないわたしたちに代わって苦しまれたのです。

 そうまでしてくださる神の愛に包まれているという事実こそ、何よりも苦しみの中にある者たちを慰め励ますものです。

 パウロはローマの信徒への手紙の中で、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:35)と書いていますが、パウロの答えは明白です。

 「…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:39)とその確信を述べています。

 キリストによって示された愛は確実です。その愛にあずかっている信仰者たちを、その愛から引き離すものはありません。どんな苦しみ、どんな困難が襲ってこようとも恐れることはありません。

 ペトロがここでキリストの苦難に言及しているのも、ただ単にキリストが先駆者として、その模範を示してくださったからだけではありません。その苦難には、罪びとのために独り子イエスを十字架の死に渡された、神の愛が示されているからです。

 神がキリストを通して贖いとってくださったわたしたちの命なのですから、この世の敵対者たちがそれを奪い取ることはできません。キリストが身代わりとなって苦しみ、贖ってくださった命に、わたしたちは生きています。

 また、ペトロはキリストの苦難が一度限りのものであることを語っています。ただ一度、というのは、贖いの死は繰り返されないということです。言い換えれば、1回で完結した完全な救いということです。完全な救いをいただいているわたしたちにとって、苦しみを辛く思うことがあっても、失望に終わることはありません。

 さらにペトロは、キリストの苦しみが、信じる者たちを神のもとへと導くためのものであったと記しています。キリストを苦難に渡された神の御心が、神へ近づくためであったとするなら、わたしたちの経験する苦難がその妨げになることは決してないはずです。

 さて、ここまでの流れは非常に明瞭です。明らかにペトロは苦しみの中にある信徒を励まし、力づけようとしています。

 しかし、19節から21節にかけて、話は横道にそれているように見えます。実際そこにしるされていることがらは、聖書学者でさえ解釈が定まらない難解な個所です。読み方によっては、死んだ後にも、もう一度福音を聞いて悔い改めるチャンスがあるようにも見えます。しかし、別の読み方では、単にキリストは勝利者としての宣言をするために、従わなかった霊たちのところへ向かったとも読めます。

 その部分の正しい解釈がわからないとしても、22節は再び明瞭な宣言が記されます。

 「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」

 あらゆるものの上に立つキリストが、神の右に座しておられる、という事実こそが、苦しみや迫害の中にある者たちに勇気と力を与えます。

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