メッセージ: すべてのクリスチャンの心得(1ペトロ3:8-12)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ペトロの手紙の中に描かれるクリスチャンの立ち位置は、天の故郷を目指す旅人であり、この世では仮住まいの身です。このことに関しては、今まで何度か触れました。それは、この世に対してまったく関わりを持たないという生き方でもなく、この世と同化してしまう生き方でもありません。両極端に行ってしまうのではなく、この世と関わりながら、しかし、天を目指す神の民として、品位のある生き方です。
先週は、クリスチャンとして、婚姻関係にある二人がどのようにこの地上での歩みをなすべきかを学びました。特に妻に対しては、配偶者が未信者である場合も想定して、配慮ある勧めの言葉が記されていました。
きょう取り上げる箇所には、再び、この世にあるクリスチャンとして、いかに生きるべきかの勧めが記されます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 3章8節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
この世に生きるクリスチャンとしての心得として、最後に勧められていることは、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になることです。これら五つのことがらは、どれも形容詞で表現されています。この世にあるクリスチャンとして、このような状態であることが望まれています。
「心を一つにした状態」や「兄弟を愛する状態」というのは、クリスチャン個人に対する勧めというよりは、キリストを信じる共同体に生きるクリスチャンに対する勧めです。
「心を一つにする」というのは、「心」というよりは、むしろ「思い」を一つにするというニュアンスです。思ったり考えたりすることが、一致しているという状態です。もちろん、この場合は、この世の人たちと思いを一つにするということではあえりません。同じ信仰を持つ者たちの間で、同じ思い、同じ考えを抱くということです。そういう意味で、この勧めはこの世にあって生きるクリスチャン共同体に対する勧めです。
ところで、個々の事柄に対して、意見が違うということはどんな社会にもあることです。教会の中でもそれを避けることはできません。そういう意見の対立を避けよ、ということが、この勧めの意味ではありません。
意見の対立があったとしても、同じ方向を見ているかどうかは大切な問題です。行きつく結論が違っても、どちらも神と隣人を愛する思いから出ている違いであるとすれば問題はそれほど深刻ではありません。しかし、その違いがキリスト教の価値観とは全く違ったことから出てくるのであれば、もはや教会の中で思いが一つであるとは言えません。
たとえば、キリスト教の愛を具体的に示すために、教会として、海外の貧しい子供たちに食料支援を計画しようとする意見がAさんから出たとします。それに対して、Bさんは、まずは自分たちの周りにいる貧困家庭に目を向けるべきだと反対意見を述べたとします。しかし、AさんもBさんも、キリストが自分たちを愛してくださったように、キリストの愛に生きようとする点で同じ思いです。
しかし、もしBさんの反対理由が、ほんとうはAさんへのねたみから来ているとしたら、その反対意見を出したBさんは、Aさんとは根本的に違うものを見ていることになってしまいます。Bさんの見ているものは、神と隣人ではなく、自分の満足だけが唯一の関心です。
この「思いを一つにする」ということに対して、次に登場する「同情し合う」という言葉は、情を共有すること、つまり、共感することです。とくに悲しい気持ち、苦しい気持ちを共感することです。同情というと、上から目線で、不幸な人を哀れに思うイメージがあるかもしれません。しかし、ここで言われている「同情し合う」というのは、そうではありません。その人と同じ気持ちを共有することです。ですから、可哀想に思うというのとはニュアンスが違います。
そして、もちろんのことですが、この「同情し合う」ことは、教会内部の人たちに対してばかりではなく、教会の外にいる人たちにも向けられるべきことは言うまでもありません。しかし、ここでは、「思いを一つにする」「兄弟を愛する」という文脈の中で出てきますから、まずは教会の中で、共感し合える間柄であることがここでは望まれています。
兄弟愛については、すでに1章22節にも2章17節にも出てきました。主にある兄弟姉妹を敬愛することは、キリスト教信仰にとって当然のことです。なぜなら、キリストがその貴い血潮をもってあがなうほどに大切な一人一人なのですから、誰一人として教会の中で軽んじられることがあってはならないのです。もし、教会の兄弟姉妹に対して、愛に欠けるとするならば、それは、その兄弟姉妹を救ってくださった主を軽んずることにつながるからです。
「憐み深く、謙虚であること」に関しては、教会内の人たちに対しても、また、教会の外の人たちに対しても、そうあるべきです。8節前半からの繋がりからいえば、教会内部の人たちに対して、憐み深く、謙虚であることを勧めているように見えますが、9節以下とのつながりで考えれば、教会の外にいる人たちのことも、ペトロは念頭に置いていることが分かります。
何よりも神の憐みは、神の義とは程遠い罪人に対して示されました。聖書の中では、罪人は返す見込みのない借金を抱えた人に例えられています。神はその借金を何の条件も付けずに帳消しにしてくださいます。それが神の赦しであり、神の憐みです。クリスチャンの憐みは、この神の憐みに根差しています。もし、自分に対して罪を犯した人を赦さないとすれば、それは神の憐みを無にすることです。
最後に挙げられる「謙虚」についても、キリスト教的な背景のある言葉です。「謙虚」の美徳に関しては、東洋社会では共通した認識があるかもしれません。しかし、ここで使われている言葉は、古代ギリシャの社会では、美徳とは思われていませんでした。自分をとるに足らない、無に等しい者であると思うことは、かえって恥ずかしいことでした。
しかし、イエス・キリストご自身が、ご自分を低くされ、十字架の死に至るまでご自分を低めて、謙虚で従順な姿を示してくださいました。自分に悪を行う者に対して悪を報いず、かえって祝福を求める生き方は、主イエスご自身が模範を示してくださった生き方です。
神はかつてアブラハムに対して、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束してくださいました。キリストによってアブラハムの子孫としていただいた私たちですから、祝福こそ私たちの願いなのです。
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