聖書を開こう 2016年1月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: まことの宗教(ヤコブ1:26-27)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自分の中で事柄が一致していない、ということはよくあることです。たとえば、言葉と行動が一致しない、という批判はよく耳にします。言葉では人に親切であることを勧めておきながら、その人自身はとても不親切な人だとしたら、それこそ言葉と行いとが一致していない人です。

 もっとも、本人にその不一致の自覚があるのであれば、まだましかもしれません。たとえ自分にはできないことであったとしても、親切自体はよいことですから、それを勧めることはいけないとは言えません。

 しかし、自分では親切な人間だと思い込んでいて、実際には全然親切ではない人が、他の人に親切を勧めたとしたら、それを聞いた人は、その人の態度にみな躓いてしまいます。

 きょう取り上げようとしている個所には、思い込みの宗教心が問題となっています。自分では宗教心があると思い込んでいて、しかし、その生き方は全く宗教的ではないとしたら、その宗教心はまったく意味がありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 1章26節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 きょうの個所は、19節で語った内容を、さらに掘り下げているように見えます。既に取り上げた19節にはこう書いてありました。

 「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」

 ここには三つのことが言われていました。「聞くこと」「話すこと」「怒ること」の三つに関してです。

 先ず「怒るのに遅い」ということに関しては、そのことを勧めた直後で、「人の怒りは神の義を実現しないからだ」とその理由が述べられます。

 「聞くのに早い」ということに関しては、21節以下で、「聞く」対象が、まずは御言葉であることが明らかにされます。そして「聞く」ということは、ただ単に音として聞くだけではなく、「御言葉を受け入れる」ことであり、さらには「御言葉を行う」ことであると展開されます。この手紙を書いたヤコブにとっては、聞いても受け入れない、聞いても行わない、というのは、御言葉を聞く態度ではありません。聞くに早いとは、御言葉を聞いて受け入れ、それを実行することです。

 では「話すのに遅い」ということに関してはどうでしょうか。

 一般論から言えば、真偽を確かめもしないで、聞いたことを触れ回ることは慎まなければなりません。あるいは、自分の発言がどういう影響を及ぼすか、よく考えもしないで発表することは軽率だといわれます。

 きょう取り上げた26節では、「舌を制することができない」ことが、「話すのに遅い」ことと対になっています。ここで注意しなければならないのは、ヤコブが何を念頭に、このことを述べているのか、ということです。一般的な常識として、軽率な言葉で、人を傷つけたり、躓かせたりしないように、ということでしょうか。

 26節でヤコブが「舌を制する」ことについて述べるとき、神を信じる者のあり方として、そのことを取り上げています。

 新共同訳聖書では「信心深い」という言葉で訳していますが、それは神を畏れる宗教心にかかわる言葉です。ここで問題となっているのは、客観的に信心深く、宗教心に富んでいる人のことではありません。自分は信心深いと思っている人です。言い換えれば、自分でそう思い込んでいる人です。しかし、二つの事柄が、その自己判断に疑問符をつけています。一つはその人が「舌を制することができない」という客観的事実です。もっと正確に言えば「制することができない」のではなく「制することをしない」人です。しようと思ってもどうしてもできないのではなく、そもそも舌を制御しない人です。

 もう一つの疑問符は、その人が自分の心を欺いている場合です。自分で自分の心を欺いている人が、自分は信心深いなどと言うのは矛盾しています。

 ですから、ヤコブは、そのような人のことを「信心深い者」とは言わないで、「信心深い者だと思っている」と表現しています。

 だれでも、キリスト教に入信する人は、宗教心があるからです。そうであれば、教会に集っている人は、皆、信心深く宗教心のある人だといっても良いかもしれません。しかし、その人が舌を制することをしないとすれば、たちまち、周りの人から疑問符をつけられてしまいます。

 ヤコブは一般論として、言葉の過ちを犯さないようにと勧めているわけではりません。この世の人でさえ舌の失敗が戒められているのにもかかわらず、神を信じて神を敬うその人が、舌の過ちを犯すのであれば、そもそものその人の宗教心が疑われてしまうからです。そういう宗教心がどれほどむなしく無意味であるか、ヤコブは指摘しています。

 ヤコブはさらに進んで、ほんとうの宗教がどのような行動を求めているのかを、具体的な例で示します。それは、みなしごややもめなど、困っている人の世話をすることに具体化され、この世の尺度に流されない人です。それは、今までヤコブが述べてきた、御言葉に聞き、御言葉受入れ、御言葉を行うことと密接にかかわっています。

 この手紙が願っていることは、この手紙の読者が、真の宗教心をもって、具体的な生活の場面で、神の御心を進んで行うことです。意味のない宗教ではなく、意味のある信仰を生きることです。

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