聖書を開こう 2016年1月14日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の言葉を行う(ヤコブ1:22-25)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 16世紀に起こった宗教改革の主張の一つに、「信仰によってのみ」という原理があります。これは「信仰義認」の教えとも言われますが、人が救われるのは、行いによるものではなく、ただ、信仰によるものだ、という教えです。宗教改革者たちは、この教えを聖書が教える真理と確信して、信仰的な戦いをしました。

 また、同時に宗教改革者たちは、この教えがもたらす誤解とも戦いました。たとえばルターの宗教改革から半世紀ほどたって成立したハイデルベルク信仰問答の問64は、信仰義認の教えについて、こう問を立てています。

 「この教えは無分別で放縦な人々を作るのではありませんか」

 もちろん、答えは、それに対してはっきり「いいえ」と答えています。なぜなら、真の信仰によってキリストに接木された者が、感謝の実を結ばないはずがないからです。

 確かにその通りなのですが、しかし、善き業を怠る危険性は、真の信仰者であっても否めません。そうであるからこそ、ヤコブの手紙に書かれていることは、大切な教えです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 1章22節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

 前回の学びでは、御言葉を聞くことの大切さを学びました。その大きな前提には、この手紙の読者たちが、神の真理の言葉によって生まれたということがあります(ヤコブ1:28)。父なる神が真理の言葉によって生んでくださったその者たちが、御言葉に聞かないというのは、ありえないくらい矛盾した話です。

 ヤコブはさらに筆を進めて、御言葉を聞くだけではなく、行うものになるようにと勧めています。

 ここで注意をしなければならないことは、救われるために御言葉を行うものになりなさい、と言っているのではないということです。この手紙の対象は、まだ信仰をもっていない人々ではありません。すでにキリストに対する信仰を持っていて、神の言葉によって生まれた人々です。

 問題なのは、真理の言葉によって神の子とされながらも、御言葉のとおりに生きようとしないことです。そのような怠慢に対して、ヤコブは筆を執っているということです。

 もちろん、ヤコブの手紙の読者たちが、善き業に意図的に励んでいないということではないでしょう。わざと御言葉を行わないというのであれば、これは問題外です。先を読んでいけばわかる通り、ヤコブが求めていることは、決して大きなことではありません。しかし、まったく意識しなくても実行できるようなことでもありません。

 たとえば、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること」などは、けっして大それた要求ではありません。そして、この手紙の読者たちがそうすることを意図的に避けているとも思えません。むしろ、このことを勧める神の言葉を耳にしながらも、御言葉を実際の場面に適用することに、あまり心を用いていないといった方がよさそうです。

 2章に登場する差別の問題もそうです。差別がいけないことだ、と御言葉によって教えられていることに反論する人は、この手紙の読者の中にはいなかったことでしょう。しかし、自分たちが何気なくしていることが、差別につながっているという自覚を持つことができない人たちがいたようです。

 ヤコブはそういう人たちをさして、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています」と述べています。

 「生まれつきの顔」と表現していますが、鏡や写真で自分の顔を見る機会が多い現代人と比べて。当時の人たちにとって、自分が本当はどんな顔をしているのか、認識する機会はとても少なかったと思われます。せいぜい、水面に映ったおぼろげな顔で、自分の顔を認識することぐらいしかありませんでした。もちろん、すでに金属面を磨いた鏡はありましたが、聖書時代の人々が鏡を見る機会がどれくらいの頻度であったのか、定かではありません。しかも、その鏡でさえ、今のガラス鏡ほど正確に姿を映していたとは思えません。

 ヤコブは鏡で自分の姿を眺める人の特徴をこう述べます。

 「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまう」

 これは、単に記憶力だけの問題ではありません。自分がどんな顔をしているのか、鏡を見た後でさえ、忘れてしまうのは無理もない理由があります。自分が普段よく目にしているのは圧倒的に他人の顔ですから、そのイメージにすぐに影響されてしまうのは無理もありません。それに加えて、だれにでも自分に対するセルフイメージがあります。セルフイメージが自分の顔のイメージを変えてしまうということも起こりえるからです。

 御言葉を聞くだけ、というのも、これによく似たところがあります。聞いた言葉を聞いたとおりに覚えるということはある程度できるでしょう。しかし、それすら、人間は自分の思い込みや解釈を付け加えて覚えていくものです。伝言ゲームがまさにそうです。もともとのメッセージと最後に聞いたい人のメッセージが大きく変わっていく一つの原因は、思い込みや解釈が加わって、メッセージ自体が変わっていくからです。

 しかも、そうやって覚えた言葉でさえ、自分の生活とあまり関係がなければ、記憶に留まることがありません。しかし、実際の生活の中に適応することによって、御言葉が何を求めているか、より深く考えることができます。結局のところ、御言葉が命じることを実践してみて、はじめてその意味を理解することができ、また、理解を深めて記憶にとどめることができるということでしょう。

 これは、律法の束縛へ逆戻りすることでしょうか。ヤコブは「自由をもたらす完全な律法」という表現でそれを否定しています。キリスト者にとって、神の御心である律法をおこなうことは、自由であることの証なのです。

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