おはようございます。南与力町教会の丸岡洋希です。
少年時代から、心につかえたままのことがありました。昭和30年頃、小学4年生頃の出来事です。
当時は野球全盛期で、私も下手な野球少年でした。道具も十分でなく、グローブは薄い皮手袋のようなものがほとんどで、良質のグローブは憧れでした。
ところがその頃、兄のように慕っていた従兄が立派なグローブを手にしたのです。キャッチボールで使わせてもらった感触はこころよかった。
ある日、安芸海岸の浜辺での試合に、事もあろうに無断で従兄の新品のグローブを持ち出してしまったのです。試合後も遊びに夢中になり、何とグローブのことをすっかり忘れたまま帰宅しました。
翌日、従兄たちが、確かに置いてあったグローブがないと、捜していることを知り、子供ながら愕然とし、昨日の浜辺に一目散に走り、ドキドキしながら、砂浜を探し回りました。
あった!
外野周辺で見つけ、その足でこっそりと、グローブを元の位置に戻しました。
従兄弟はおかしいと思うと同時に私が持ち出したことは判っていた筈です。
「勝手に持ち出し、浜辺に忘れたけど、見つかって元に戻しました。御免なさい」と謝れなかったのです。
その後悔は50年近く、私の心に重くのしかかったままでした。
60歳を過ぎたある日、家族同様の伯父と従兄にどうしても謝っておきたいと、当時のグローブ事件のお詫びをしたのですが、二人とも咎めもせずに「そんなことがあったかなぁ」と微笑むだけでした。私を心から赦して下さっていたのだと感謝の思いで一杯になりました。
聖書のマタイによる福音書18章のなかで、イエスさまが『仲間を赦さない家来』というたとえ話をされています。
ある家来が王に、一万タラントンの借金をしていた。これは、支払不可能な何万年分の日当です。
返済日がきたが、「どうか待って下さい。必ずお返ししますので」と懇願をした。王様は彼を哀れに思い、彼を許し、借金を帳消しにしてやった。
ところがその家来は帰り道で、100日分の日当にあたる百デナリオンを貸してあった仲間に出会い、彼を取り押さえ首を絞め、金を返せと迫ります。「待って下さい、必ず返すから」としきりに頼む友人を、許さず牢獄に入れてしまったのです。
そのことを知った王は、「自分が憐れみを受け、全てを許された者は、他人をも憐れむべきではないか」と家来を裁いてしまいました。
このたとえ話を聞いてひどい家来だと思うのですが、翻って自らの人生や、日々の営みを省みるとき、少年時代の過ちを、咎められず、許され、なお愛し続けて頂いた私は、はたして同様に隣人を許してきただろうか。
むしろ私には、「あれだけは」「あの一言だけは許せない」という許せない思いが、心に棲みついています。
私は日々、自分の考えに基づき、生活をしています。しかしながら、神秘的な生命、無限の宇宙空間、大自然、はかり知れないさなかで、無知に等しい私が、真理や正義に則って歩み、正しく判断することは困難です。
他人を許すどころか、多くの間違いを犯し、災いを起こし、人を陥れるような、許されない罪を重ね、神の目から見ると、私の人生の借金は、友を許さなかった家来を越えているのかもしれません。
イエスさまは、そんな私を憐れんで下さり、支払いきれない罪の借金を肩代わりして、私の全てを許そうとして下さっています。
週毎の教会の礼拝で、イエスの許しと愛の深さを聖書の御言葉を通し教えられ、心の重荷を下ろすことができます。
皆さまもぜひお気軽に教会においで下さり、日々の重荷を少し軽くしてみて下さい。