おはようございます。南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。今朝はマタイによる福音書7章24節から27節の御言葉に耳を傾けたいと思います。
これはイエス様が語られたたとえ話です。二人の人が出てきます。一人は岩の上に自分の家を建て、もう一人は砂の上に自分の家を建てました。そしてこの二人の家には同じ自然災害が襲います。「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」、その家を襲ったのです。
岩の上に建てた家は倒れませんでした。しかし、砂の上に建てた家は倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどかった、と言われています。
このような違いが生じたのは、土台の違いです。岩の上に家を建てた人は「賢い人、思慮深い人」と言われています。洪水が起こることを予想してそれに備えていたからです。
一方、砂の上に家を建てた人は「愚かな人」と言われています。洪水がやってくることなど考えもせず、それに対する備えをしていなかったからです。
わたしたちの住む日本では多くの自然災害が起こります。近々、南海トラフ地震が起こり、津波が発生するとも言われています。そのような自然災害に備えをしていることは大切でしょう。しかし、イエス様はそのようなことをここでおっしゃっているわけではありません。
これはたとえ話です。二人の家を襲う洪水は文字通りの自然災害のことではなく、最後の審判を象徴するものです。
自然災害は、住んでいる場所や時代によって、被害に遭う人も遭わない人もいます。しかし、最後の審判という試練・洪水は、すべての人に、同じように襲いかかってくるのです。そしてその時に初めて、その人が何を土台に家を建ててきたか、すなわち何を土台にして人生を築いてきたか、ということが明らかになります。
わたしたちはその時に、備えている必要があります。砂の上ではなく、岩の上に家を建てる必要があります。
ではそれは具体的にはどういうことでしょうか。イエス様は次のように言っておられました。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」。その一方で、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」。そのように言われるのです。
「わたしのこれらの言葉」とは、イエス様が山上の説教全体を通して語ってこられたことです。そのようなイエス様の言葉を聞いて、それを行うのか。あるいは聞くだけで、行わないのか。それが決定的なことなのです。
聞いて行う人は、イエス様の言葉を土台にして人生を築いていく人。そのような人が、岩の上に自分を建てた賢い人なのです。
一方、聞くだけで行わない人は、砂の上に家を建てた愚かな人です。
もちろん、わたしたちは完ぺきにイエス様の言葉を守れるわけではありません。イエス様の言葉に背いて罪を犯してしまいます。ではそのようなわたしたちはもう駄目なのでしょうか。
最後の審判で裁かれるしかないのでしょうか。そうではないはずです。ここで思い起こしたいことは、「わたしの言葉を聞いて、行いなさい」と言われるイエス様は、わたしたちの罪のために死んで下さったお方でもある、ということです。そのイエス様ご自身が、わたしたちの依り頼むべき「岩」でもあるのです。
わたしたちは、この岩であるイエス様を信じ、寄り頼み、そしてイエス様の言葉を土台にして生きて行くよう招かれています。そして、そのように生きていくならば、わたしたちはどんな洪水、最後の審判が襲ってきても慌てふためく必要がない。それは、わたしたち自身が強いからではなく、弱いわたしたちをイエス・キリストが土台として支えてくださるからであります。
そこにこそ、わたしたちの真の平安と慰めがあるのです。