皆さん、ご機嫌いかがですか。私は高知県下ただ一つのミッションスクール、清和女子中高等学校で校長をしています、黒田朔です。毎朝、全校礼拝を持って一日を始めています。このチャペルのお話が生徒たちの心に、いのちの養いとなるようにと願っていますが、これからお届けする話も、あなたのお役に立てばと願って届けます。
結婚式で「皆さん、今日の良き日に新しい船出をなさる二人に、祝福があるように花吹雪でお祝いしましょう」というような、お祝いをいたします。まさにその通り、船出した船が嵐に会うように、誰でもその人生の歩みの中で、どこかで嵐に会うものです。
それにしても、今日ご紹介するところはひどいです。マルコによる福音書の4章の35節から、こんな話があるんです(35節−37節)。
「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう。』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。」
なんていうことでしょうか。
もし、舟さえ出さずに港にとどまっていたら、嵐にあうことはありませんでした。イエスのお言葉に従ったために、大嵐に会ったのです。文句の一つも言いたくなりますよね。
弟子たちは眠っておられたイエス様を起こして叫びました。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」その時、イエスは起き上がって風と湖を叱りつけると、「風はやみ、大なぎになった。」と言うのです。
弟子たちは驚き、たまげました。そしてこの嵐体験を通して学んだのです。
まず第一は、イエス様が共にいて下さっても、いえ、時にはイエスに従ったからこそ、嵐に会うことがある。つまり、神様を信じているってことが、嵐にあわない保証ではない、ということを彼らは学んだんです。
しかし第二に、その嵐の中で大事なことは、共にいて下さるイエス様を覚え、信仰を働かせるということでした。イエス様は仰いました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
嵐を通り抜けたとき、弟子たちは叫んだんです。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
これはイエスを信じ、嵐にあったものだけが叫ぶことのできる、喜びのことばじゃないかなと思います。
私は牧師への道を進む決心ができませんでした。何が原因か…。自分の心の中をのぞくと、ありました。
お金の心配でした…。ちょうど結婚をして、長男が生まれたばかり。
しかし、やっとの思いで、献身の決心をしました。仕事を辞めて、牧師になり、そして、ハワイへ牧師として迎えられて、そこで、30年近く働きました。
ハワイにいたとき、還暦を迎えたんです。子供たちが準備してくれた、サプライズの家族旅行で、ハワイ島というところのコナという海岸に行きました。
どこにでも、世界一はあるのですが、コナの夕陽は世界一、と言われているその夕陽を見ながら、思いました。あの時、「心配するな、還暦にはコナで世界一の夕陽を見せてあげるから」と神様が言ってくれてたら、あんなに心配しなかったのにと思ったんです。
でもしばらく、何日かしてから、わたしは思い出しました。いや、神様は仰ってた。
「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」
私はその言葉を覚えていながら、信じていなかったのです。
聖書の言葉
「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ4:40・新改訳)
それではまた来週、お会いしたいと思います。御機嫌よう。さようなら。