おはようございます。松山教会の久保浩文です。
聖書には、いろいろな人間が登場します。そしてそこで描かれる人間関係も、また様々です。
特に新約聖書では、イエス・キリストとその弟子たちとの関係、また、弟子たち同士の関係などもありのままに描かれていて、興味をひかれます。
イエス・キリストの十二弟子の一人で、弟子たちの筆頭格であったシモン・ペトロは、かつてガリラヤ湖の漁師でした。ある日、イエス・キリストと劇的な出会いをし、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれて弟子になりました。
その後の彼は、持ち前の親分肌で弟子たちを取りまとめ、「イエス・キリストの一番弟子、筆頭格である」ことを自他ともに認める立場となりました。
イエスの地上での働きも終盤を迎えて、弟子たちと最後の食事をした時のことです。イエスは、ペトロの将来について次のように預言されました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:31-32)。
これに対してペトロは、思いがけないイエスの言葉に驚きを覚えつつも、その言葉を打ち消すかのように「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えました。
しかしイエスはさらに「あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたのです。
悲しいことに、そのわずか数時間後に、イエスの預言は的中することになりました。
イエスはユダヤ当局者に逮捕され、裁判のために大祭司の屋敷に連れて行かれました。弟子たちはちりぢりに逃げましたが、ペトロはこっそりと後について行き、大祭司の家の中庭でたき火を囲む人々にまぎれていました。
すると、ある女中が、たき火に照らし出された彼の顔をじっと見て「この人も(イエスと)一緒にいました」と言ったのです。ペトロはとっさに「わたしはあの人を知らない」と言ってしまいました。2度目には否定の言葉はもっと強くなり、3度目に「あなたの言うことは分からない」と言ったその時、鶏が鳴いたのです。
イエスはペトロを振り向いて見つめられました。ペトロはイエスの言葉を思い出し、外に出て、激しく泣きました。
この時のイエスの眼差しは、ペトロに対する非難めいたものではありませんでした。イエスは、ペトロの弱さ、もろさをすべてご存じの上で彼のすべてを受け入れておられました。そして「あなたのために祈った」と言われた、祈りの込められた愛と赦しに満ちた眼差しを向けられたのです。
ペトロは、イエスの祈りの込められた眼差しによって自分自身の真の姿を知り、イエスを通して示された神の赦しと憐みがわかり、再び信仰を取り戻すことができました。
この後、ペトロは再び弟子のリーダー格として、宣教の道を歩みます。
しかしかつてのように、ただ自分自身の力に頼るのではなく、主イエスに愛と赦しをいただいた者として、真の信仰の強さを発揮していくのです。この主イエスの眼差しは、信じる者すべてに注がれています。
ラジオをお聞きのあなたにも、ぜひ、この恵みに与っていただきたいと願っています。