おはようございます。松山教会の久保浩文です。
私たちは、いつも人との関わりの中で生き、周囲の人の視線にさらされながら生きています。そこで、程度の差こそあれ、絶えず「人の目」というものを意識するようになっています。
しかし、私たちを見ているのは周囲の人間だけとは限りません。むしろ、わたしたちには見えませんが、「神様の目、視線」が私たち一人一人に向けられているとすればどうでしょうか。
神様は、私たちをどのようにご覧になられ、どのように評価しておられるのでしょうか。
かつてイスラエルという国に王が立てられたことがあります。初代の王として即位したのは、サウル王でした。サウルは、最初の頃は主なる神様の御心に従っていましたが、王として次第に力を増すにつれ、預言者サムエルを通して語られる主の言葉に従わなくなりました。主なる神様のご命令を、自分に都合の良いように解釈したり、間引いたりしていました。
ある時、戦いに出たサウルは、「敵のすべてのものを滅ぼし尽くせ」との主なる神様の命令に背いて、値打ちのない、つまらないものだけを滅ぼし、自分の目に惜しいと思うものは取り分けて、自分のものにしようとしました。主の御言葉を退けたサウルは、王位から退けられました。
そして主は、預言者サムエルに「サウルに代わってイスラエルを治める王となるべきものをエッサイの息子たちの中に見出した」と言われました。
サムエルは、新しい王を探し出すため、エッサイの家に出向きました。
エッサイには8人の息子がおりました。サムエルはそのうちの一人を見て、「彼こそ、主の前に油を注がれる者だ」と思いました。しかし主は、「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われました。一人また一人と、サムエルの前に連れて来られましたが、そのどれも主の目にはかないませんでした。主が選ばれたのは、サムエルに紹介もされず、一人野原で羊の番をしていた末の息子でした。彼こそが後のイスラエルの勇士、名君となるダビデでした。
私たちは、ややもすると、人の外見、容姿や言動にとらわれて評価してしまいます。しかし主なる神は、私たちの心の奥深いところまですべてを見通される方です。この事実は、一見恐ろしいことのように思えます。しかし見方を変えると、私たちがいかなる状況の中にいても、とくに苦しい時、悲しい時、人に語ることもできない胸の内も、主なる神は、すべてご存じでいて下さるということです。
そして神は、私たちが心から叫び求めれば、必ずや私たちの願いに答えて下さいます。
ダビデも王となってからも幾度となく、先の王サウルから命をねらわれ、危険に身をさらすことになります。しかしダビデは、いついかなる時も、主なる神様を信じ、主がすべてを良きように導いて下さることを片時も忘れることはありませんでした。
主がいつも私たちを見ていて下さり、呼び求めさえすれば、必要に応じて助けの御手を差し伸べて下さるのです。
最後に聖書の一節をお読みします。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(詩編121:1)