おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
夏目漱石の書いた小説『吾輩は猫である』の中に、キリスト教の神を皮肉った一節が出てきます。当時は、日本でキリスト教の禁令が解かれてから、まだ三十数年という時代でした。丁度日露戦争の時代です。西洋に対する劣等感と、西洋にも肩を並べるようになった自信とが交差する時代でした。
この小説には、猫を通して見た人間の世界が、面白可笑しく描かれています。実際には、この猫こそ夏目漱石本人に違いありません。その小説の中で、主人公である猫は、キリスト教を皮肉って言います。おそらくそこに出てくる議論は、実際に当時の牧師や宣教師が使っていた話に基づいているのでしょう。
猫はこう言います。
「キリスト教の神は全能者であると言われている。その証拠にこれだけたくさんの人がいても、一人として同じ顔がない。そのようなことができるのは、神の全能的伎倆と云っても差し支えない。しかし、猫に言わせれば全く逆だ。神が全能者であるなら、寸分違わず同じものが作れるはずだ。その方がよっぽど難しい。」
と、要約して言えばこんな議論です。
キリスト教を擁護する者たちが掲げる議論も、反対に夏目漱石の猫の議論も、それなりに説得力があり、興味深いものを感じます。きっとこの議論の軍配は、聞く人が最初から抱いている確信によるのだと思います。神が全能者だとそう確信している者にとっては、猫の持ち出す議論は屁理屈にしか映らないでしょう。反対に、全能の神などいないと思う者にとっては、猫の言い分こそ、もっともに聞こえるでしょう。
全部を違うように造ったことが全能者であることの証拠なのか、それとも反対に、全部を全く同じように造ることが全能者に相応しい技量なのか。その問題はさておくとして、何故、神は人をこうも一人一人違うようにお造りになったのか、わたしはその方にもっと興味を感じます。
創造者である神を前提に持たない人にとっては、それは、偶然のいたずらとしか思えないかもしれません。あるいは、人間という種の保存の法則から、そのような違いが必然として生じたと説明するかも知れません。もちろん、わたしは聖書の神を信じていますから、一人ひとりに違いがあるのは、それをお造りになった方の意図がそこに反映されていると考えています。
そう考えることで、どんなに違いがあっても、一人ひとりを神がお造りになったユニークな存在として、積極的に知りたいと思い、理解したいと願い、必要な一人として受け入れる心が芽生えてくるからです。
ちょっとした違いが人を排斥し、互いに受け入れることを困難にしているこの現実の人間社会に、いったいどんな世界観でこの悲惨な状況を乗り越えていこうとするのでしょうか。
一人一人が違っていてもいい。いえ、違っているからこそ、豊かで楽しい世界ができていると、そう誰もが思うことができる世界の実現を願ってやみません。