おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
きょうはイースターの日です。イースターとは、イエス・キリストが死者の中から復活されたことを記念する日です。
現代人にとって、キリストの復活など興味のない話かもしれません。それは、人は死んでしまったら、もう終わりである、と誰もが素朴にそう信じているからです。そして、この世の中が、永遠に生き続けるに値するほど魅力のあるものとは思えない現実を知っている者にとっては、人の生涯に終わりがあることは、理にかなったことだと思われるからです。
確かに、どんなに悪徳な権力者にも、いつかは死が訪れると知っているからこそ、圧政を忍耐することができるのかもしれません。あるいは、この地上のどんな苦しみも、死を超えてまで自分を苦しめることはない、とそう信じているからこそ、再び生き返ってまで、あの苦しい人生をもう一度やりたいとは思わないのでしょう。
しかし、そうした思いは、罪が支配する世界でならば通用する話です。聖書が約束する救いが実現した世界を知っているならば、きっと誰もがその世界に生きたいと願うはずです。そこには平和と安らぎが実現しているからです。
聖書が約束している復活は、ふたたび人生をやり直す生まれ変わりとは違います。たとえ今よりましな人生に生まれ変わったとしても、その人生を繰り広げる舞台が、依然として人の罪が蔓延する世界であるならば、どんなに裕福な暮らしに生まれ変わったとしても、平和と安らぎは保証されません。
新約聖書にはパウロという人が書いた手紙が収められています。パウロという、人が書いた手紙ですが、それはパウロの個人的な思想や信念をつづったものではありません。神がパウロを用いて示した、ご自分の真理を信じる者たちに啓示したものです。
そのパウロが書いた手紙の中に、復活についての教えを丁寧につづった個所があります。そこには、キリストの復活を目撃した者の一人として、そのことを書いているパウロがいます。
キリストの復活が事実であったという証言はもとより、そのキリストの復活が、何を信じる者にもたらすのか、そのことも力強く記しています。
逆に言えば、聖書に約束されている救いの実現がもたらす様々な恵みは、もし、キリストの復活がなければ、まったく希望のないものであるということです。
そのパウロが特に苦労して描いているのは、キリストを信じて復活する者たちの体についてです。復活の体が、どんなからだであるのか、ということは、この地上にその具体的な例があるわけではありません。もちろん、キリストは復活の栄光の体をもってよみがえられましたが、その体を見せることはもはやできません。
未知の世界のことを解き明かすことほど困難なことはありません。しかし、それがどんなものであったとしても、死から完全に解放された体であるということです。聖書が教える死とは、ただ単に肉体の死という問題ではなく、罪の支払う報酬としての死の問題です。言い換えれば、人間をあらゆる悲惨の中に陥れていた罪に終止符が打たれ、その新しい世界に、栄光をもった朽ちない体で生き続けることが約束されているのです。
この話は、理解できないという意味で、馬鹿げた話であるかもしれません。しかし、平和と安らぎの中で生きたいと願うその願いは、だれもが共通して抱いているのではないでしょうか。キリストの復活はそのことを保証する確かな土台です。