おはようございます。改革派高知教会の古口初穂です。今日は、私が高校3年生のときに出会って今でも時々考えている、ある小論文の問いについてお話しようと思います。それはこのようなものでした。
「次のA,B二つの文を読んで、あなたの考えを書きなさい。A 己の欲せざるところ、人に施すなかれ。論語 B 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。聖書」
Aの「己の欲せざるところ、人に施すなかれ。」は論語に出てくる孔子の教えです。Bの「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」は聖書に出てくるイエスのことばです。
二つの教えはとても似ていますが、よく読んでみると微妙に違います。孔子は自分がしてほしくないことについて考え、イエスは自分がしてほしいことについて考えるように教えています。そして、孔子は、「してはいけない」と言って「しない」ことを選択させているのに対し、イエスは「しなさい」と言って「する」ことを選択するように教えています。
でも、「してほしくないこと」や「してもらいたいこと」は人それぞれ違います。だから、自分を基準にして、自分がしてほしいことは相手もしてほしいと思うだろう、という考えで誰かに何かをするなら、それは親切の押し売りというか、ありがた迷惑になる可能性もあります。「してほしいことをする」というのは結構リスクがあることだなあと思います。
それに比べて「してほしくないことをしない」というのはとてもシンプルです。自分がしてほしくないと思うことと相手がしてほしくないと思うことは違うかもしれないけれど、結局「しない」のだから問題はありません。
自分がちょっとでも嫌かなと思うことは、しなければいいのです。相手に不快な思いをさせることもなく、ノーリスクです。
ここまで考えて高校生の私は、ちょっと待てよ、と思いました。
私はクリスチャンの家庭に生まれて、ずっとキリストの教えを聞いて育ってきたので、はじめに小論文の問題を見たとき、自分は当然Bのイエスの教えを支持する小論文を書き上げるだろうと思っていました。が、ありがた迷惑のリスクを持ったイエスの教えと、ノーリスクの孔子の教えでは、孔子の教えのほうが優勢であるように感じられました。それ以来、私は、なぜイエス様があえてリスクの高いことをするように教えたのかを考えるようになりました。
この孔子とイエスの教えの大きな違いは、「する」か「しない」か、ということです。どんなことでも何かを「する」ときには、リスクがつきものです。上手くいくときもあれば、時には誤解や衝突が生まれるかもしれません。「しない」ことは、何もしないわけですから衝突もなく安全です。でも何も生まれません。
私はこのことに気づいたとき、イエス様は、何かを「する」ことによって相手との関係を作ることを期待しておられるのではないかと思うようになりました。
「相手がしてほしいと思うこと」と「自分がしてほしいと思うこと」は確かに違うかもしれないけれど、とにかく何かを「する」ことによって、相手との間に会話が生まれ、関わりが生まれます。その人と人とのふれあいを、イエス様は大切にしておられるのだと思います。
誰かのために何かを「する」ということは、「しない」ことよりもずっと、相手との関係を築こうとする温かさが伝わる行動なのだと思います。
イエス様は病気の人を治すとき、本当は「治りなさい」という一言だけで治してしまうことができるのに、わざわざその人のところへ行くということをして、その人に触れるということをして、病とともにその人の心も癒されました。
イエス様は「する」ということを通して、「あなたのことを大切だと思っているよ」という気持ちを伝えるのがとても上手な方だと思います。
一方で私は、相手に気持ちを伝える行動がどれだけできているだろうかと考えさせられます。人とのかかわりをもつことは時に面倒であったり、恐れが生じたりすることもあります。それでも、感謝の気持ちや相手を大切に思う気持ちを、言葉にする、行動にすることを意識できたら、イエス様の歩みに一歩近づけるのかもしれません。
これからも聖書の教えを聞きつづけて、ゆっくりとそんな人になっていけたらなあと思います。