いかがお過ごしですか。船橋高根教会の牧師の小峯明です。悲しんでいる方があれば、わたしたちは心配いたします。そして親しい方であれば、話を聞いて、慰め励ましたいと思います。しかし、悲しみの内容によっては、わたしたち自身、どのように言葉を掛けたらよいか戸惑ってしまいます。
一方で、わたしたちは自分が悲しんでいる時には、そっとしておいて欲しいと、願うかもしれません。そしてその悲しみを表に出さないようにして、静かに耐えてしまうかも知れません。誰にも話さず、心を閉ざし、そしてその悲しみを心の奥に仕舞い込んでしまうでしょう。
しかし、主イエスは親しい友人のラザロが亡くなった時に、悲しみをあらわにされて、ご自分の感情を示されました。わたしたちは他人に、自分の感情を表すことは、はしたないことだと考えています。ぐっと我慢して、涙をこらえてしまいます。悲しみを隠して、忍耐で悲しみに向き合います。
けれども、主イエスは、主イエスのもとで悲しむ者は、必ず将来慰めを受けると語りました。ですから、悲しむ者は幸いであると言われます。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。
涙よりも笑顔が幸いだとわたしたちは思っています。もちろん笑顔も幸いであるに違いありません。しかし、主イエスにおいては、悲しむ者も幸いです。そこには神による慰めがあるからです。
慰めるという言葉は、傍らで呼ぶ、という意味の言葉です。悲しむ者の傍らに、主イエスは来てくださり、その悲しみをご覧になって、慰めを与えてくださいます。主イエスのもとには確かな慰めがあるのです。