いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
聖書には、神様の事が様々に書かれています。しかしわたしたちは、普段の生活において、この神様のことをいつも考えながら生きているでしょうか。おそらく、違うのではないでしょうか。まずは目先の事、仕事の事、家事や育児の事、それから、自分の楽しみにしていること、などなど、考えるべきことは沢山あって、さらにどうしてもしなければならないことが次から次に現れて、目まぐるしく生活し、ゆっくりと神様のことを考える時間はなかなか確保できない、というのが現実ではないでしょうか。
実は、このような状態のことを聖書では、罪のある状態と言います。罪、とは具体的な悪いことというよりは、むしろ神様を忘れ果てている状態のことです。しかし、それでは、わたしたちは、ただそのような罪の状態にどっぷりとつかっていることしかできないのでしょうか。
聖書にはこのような言葉があります。「神はすべての人を不従順な状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。
普段、神様のことを思いもしない、わたしたちが、神様を理解しない罪の状態にあるとしても、それは、そのまま神様が分からない状態にとどめておくためではなく、むしろ、そこでそのような状態の私たちに神様が現れて、一緒にいるようになってくださるために、あえてそうなっているのだと、この聖書の言葉は語ります。