いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
キリスト教の歴史をたどりますと、特に初めのころの教会においては、信仰を理由にして、嫌がらせを受けたり、ひどい場合には命を落とす、ということもあったようです。それは何も、ヨーロッパだけの事ではなく、日本においても、安土・桃山時代に広まったキリシタン信徒たちが、その後、各地でひどい扱いを受け、磔にされていくということが実際にありました。
その中で、なお、信仰に留まる人たちがいました。
では、このような信仰というものは、一体どこから来るのでしょうか。もちろん、私は当時の一人一人のキリスト者の方たちが、実際にどのように感じておられたのか、断定することは出来ません。ですから、これは想像でしかありませんが、おそらくそのような信仰は、何らかの修行や、強い信念といったこととは違う次元の出来事だったのではないでしょうか。
もちろん、わたしたち人間は、名誉のため、正しさのために、命を投げ出すということがあります。しかし、少なくともキリスト教の信仰、そこで見られる強さは、そのような一人一人のがんばりや信念によるものではないのです。
聖書のローマ書にはこのような言葉があります。「神が各自に与えてくださった信仰」。
神様は、私たち人間それぞれに、その人にふさわしく、まさに丁度良い信仰を分け与えてくださるというのです。信仰とは自分で頑張るのではなく、神様からいただくものです。