いかがお過ごしでいらっしゃいますか。江古田教会の浅野正紀です。今日も、聖書の言葉に共に耳を傾けましょう。
私たちが神さまを信じて生きていく時、決して忘れてはならないことがあります。それは、どんな時も、どんなことでも、私たちは、神さまに祈ることができるということです。わたしたちは、自分の苦しみや悲しみ、怒りすらも神さまに対して吐き出すことがゆるされています。
旧約の預言者エレミヤは、神さまに召し出されて、預言者として働きました。エレミヤにとって神さまが与えた預言者としての働きは、とても苦しくつらいものでした。エレミヤは、自分の苦しみを神さまに正直にぶつけてこう祈りました。
エレミヤ書15章18節です。「なぜ、わたしの痛みはやむことなく わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り 当てにならない流れのようになられました」。
エレミヤは、神さまに自分の苦しみを正直に訴えています。そして、さらに神さまに対して、「裏切者」「あてにならない」とまで言っています。このような神さまへの思いをぶつけることは、信仰者でなければできません。エレミヤは、不信仰のゆえに神さまに文句を言っているのではなく、信仰があるからこそ、文句を言うことができます。
自分を預言者へと召し、導いてくださる方が他でもない神さまであると知っているからこそ、思い切ったことが言えます。神さまは、私たちのどんな思いであっても、すべて受け止めてくださいます。