ごきげんいかがですか。綱島教会の川杉安美です。
イエス様の代表的な弟子であるパウロという人が言いました。《ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています》。
当時のユダヤ人たちは、神様が働いておられるという何かしるし、奇跡、それを求めていたようです。
また、ギリシア人は、何か新しい知恵、哲学、教え、そういうことを求めていたようです。
そういう中にあってパウロは、あくまでも十字架につけられたキリストを伝えるというのです。なぜならば、それこそが人間に最も必要なものであり、最も大事なことだからです。
あるいはこう言い換えてもいいでしょう。イエス・キリストの十字架こそ、神様からの本当のしるし、本当の知恵があると。
人間は、神様を信じ、神様と共に生き、歩むことが本来のあり方でした。しかし、神様を忘れ、神様に背を向けて歩むようになってしまいました。そのことを罪と言います。どんなに良い人でも、善人であったとしても、神様に背を向けているなら、罪人なのです。
全く正しい神様は、その罪を見逃すことはできません。それは不正です。罪人は裁かれ、滅びなければなりません。しかし、神様は憐れみ深いので、罪人を赦す道を開きました。それが、イエス・キリストの十字架です。
イエス・キリストを人間の罪の身代わりとして、十字架で裁いたのです。そのようにして、罪人を赦し、和解の手を差し伸べてくださったのです。
イエス・キリストの十字架が、私の罪の身代わりだと受け入れるなら、神様と和解することができます。本来の人間のあり方として、神様と共に歩むことができ、天国にも行くことができるのです。