いかがお過ごしですか。船橋高根教会の牧師の小峯明です。
アブラハムとイサクは旅を続け、神が命じたモリヤの地の山に着きました。その山で父アブラハムが、薪を重ねて祭壇を築きます。イサクはそれを眺めていました。
すると、父は息子のイサクを縛って抱き上げて、祭壇の薪の上に載せました。イサクは何を思ったでしょう。聖書はイサクの気持ちを記しません。咄嗟のことで、「えっ」と思った瞬間の出来事でした。
そして、アブラハムは「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとし」ました。アブラハムは神の命令に従いました。
脳裏に、カルデヤのウルの町を出たこと、そして約束の土地に導かれたこと、待てど暮らせど子供が与えられないこと、その中で息子を与えるとの約束を聞いたこと、それを聞いて笑ってしまったこと。しかし、その不信仰を神は赦してイサクを与えてくださったことなどが浮かんだことでしょう。 その末路がイサクをささげよとの命令です。神に翻弄された人生だったのでしょうか。けれども、アブラハムは疑いませんでした。
神は人に命を与え、愛し導かれる。自分は神なくしてはただの土くれにすぎません。アブラハムは目をつぶって、刃物を振り上げました。イサクも目をつぶって身を固くしていたでしょう。
その時、天から声が響きました。神の御使いは、神の言を告げました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
そうです。アブラハムは神に従いました。神に委ねて解決を与えられたのです。