おはようございます。ひたちなか市足崎にありますひたちなか教会の牧師、小宮山裕一です。
私はキリスト教信者になる前に、神様を信じる人というのはなんの迷いもなく神様を信じているのだと思っていました。確かに、神様を信じる時、私達には慰めと平安が与えられます。しかし、神様を信じたからといって人間であることには変わりはありません。迷いますし、戸惑うこともあるのです。
こうした迷いや戸惑いはいけないものだと思った時もありましたが、今はそうした迷いや戸惑いも大切なのではないか、と思うようになりました。
人間は、神様によって作られたものです。その人間が未来に起こる出来事を含めて、全てを悟ることはできません。全てを知ろうとすることは人間としてのわきまえをこえた傲慢ともいえるでしょう。
そう考えますと、人間とはもともと不安定なものです。しかしながら、不安定であるということは決して恥ずかしいことでも、ダメなことでもありません。不安定だから周りと協力していくのです。そして不安定だからこそ、人間は謙遜になるのです。
そして不安定だからこそ、わたしたちは神様を信じるのです。神様を信じるということは弱いことや情けないことではありません。むしろ、自らをきちんと見ているのです。
そしてこの私を神様は愛してくださっているということを、私達は自らの弱さを通して知るのです。
弱さを恥じるのではなく、弱さを通して神を知る。こうした営みの先に、豊かな幸いがあるのではないでしょうか。