聖書を開こう 2015年12月24日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 貧しい者と富んでいる者(ヤコブ1:9-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 新聞や雑誌で「格差」という言葉が、頻繁に使われだしたのは、ここ何年かのことです。特に最近では、貧富の格差が拡大しつつあることが大きな社会問題として取り上げられています。しかし、歴史的に見れば、貧富の格差の問題は、昔から続く課題です。言い換えれば、人類が経済活動を始めた時から今日に至るまで、人間はこの経済的な不平等を今だに完全に克服することができていないということです。
 聖書の世界にも富んだ者と貧しい者との対立がしばしば描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 1章9節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。

 今学んでいるヤコブの手紙には、富んでいる者と貧しい者との話題が、ここばかりではなく、ほかの章でも取り上げられています。

 たとえば、2章の前半では教会で起こる差別の問題が取り上げられていますが、その差別は相手の経済状態による差別です。5章の冒頭でも富んでいる者に対する警告がなされています。しかも、その警告には労働者からの搾取が問題となっています。

 こうして見てくると、いかに富と貧困の問題が根深いものであるのかということが理解できると思います。

 さて、きょう取り上げた個所は、貧しい者に対する直接の呼びかけで始まっています。先ほど触れた2章や5章は、富んだ者たち、あるいは、富んだ者たちの側につく人たちへの警告です。そこには貧しい人たちに対する直接の語りかけはありません。それに対して、きょうの個所には貧しい人たちへの語り掛けがあります。

 「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。」

 もっとも、ここで「貧しい」と訳されている「タペイノス」という言葉は、2章の2節や5節で「貧しい」と翻訳されている「プトーコス」という言葉とは違って、口語訳聖書が翻訳しているように「身分が低い」とか、あるいは「卑しい」という意味の言葉です。ここでは「富んでいる者」と対照的に置かれていますから、文脈から考えて「貧しい」と翻訳しています。
 もちろん、聖書の中では「タペイノス」という単語は「謙遜な」という、いい意味で使われることが多い単語ですが、「謙遜な」という意味でこの単語が使われるようになったのは、新約時代に入ってからです。ここでは明らかに軽蔑的なニュアンスを持った使い方で用いられています。

 「貧しい」ということを意味する別の単語をあえて使わずに、「卑しい」を意味する「タペイノス」という単語を使ったのには、理由があるはずです。

 ここには、貧しい人たちへの社会的な評価が前提にあります。キリスト教的な背景からすれば、「貧しさ」は必ずしも卑しむべきことではありません。2章5節でも言われている通り、神は貧しい人々に神の国を受け継がせる約束をしています。そのことは、山上の説教で「貧しい人たちの幸い」についてお語りになったイエス・キリストの言葉とも一致しています。旧約聖書、とくに詩編の中に登場する「貧しい人」は「敬虔な人」というのとほとんど同じ意味で使われています。

 しかし、ヤコブが書いたこの手紙を受け取った人々の間では、「貧しい人」に対する評価は、周辺世界のそれとまったく同化していたように思われます。そうであればこそ、世間から「卑しい」と思われている人々に対して、この置かれた境遇に誇りを持つようにと命じています。

 ここには、教会の責任も鋭く問われています。もし、キリストの教えを教会がその通りに受け入れているとすれば、貧しい人たちがそこで少しも肩身の狭い思いをしなくても済んだはずです。しかし、実際には、2章で描かれるように、貧しい人たちへの差別的な扱いが、教会の中で平然と横行していたのでしょう。

 「自分が高められることを誇りに思いなさい」とヤコブは命じます。

 実はこの翻訳にも解釈が含まれています。「自分が高められること」というのは、新改訳聖書が訳しているように、「自分の高い身分」という意味です。将来約束されている高い身分のことではなく、おそらく、今与えられている「高い身分」のことをヤコブは念頭に置いているのでしょう。

 人間的な目から見れば、貧しい人たちは高い身分とは思われていません。社会の評価も、そして、ヤコブの手紙を受け取った共同体の内部でもそうです。けれども、ヤコブは貧しい人たちの「高い身分」にあえて心を向けさせています。

 ヤコブはさらに筆を進めて、今度は富んでいる者に向かって書き記します。

 「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。」

 「誇りに思いなさい」という言葉は、原文にはありませんが、貧しい人に対する言葉と対比して、その部分を補って翻訳しています。

 この「自分が低くされることを誇りに思いなさい」というのは、ある意味、皮肉です。低い状態を誇りに思うことなど、普通はあり得ないことです。しかも、続く節では「富んでいる者も、人生の半ばで消えうせる」と語られているのですから、そのことを誇りに思えと言われても、誇れるはずなどありません。むしろ、見た目には高い身分に見える自分が、実は神の目から見れば低く、熱風の前にもろくはかない草の存在と同じであることを知れ、という意味でしょう。

 問題なのは、この「富んでいる者」が、どこにいるのか、ということです。ヤコブは教会の外にいる「富んでいる者」に向かってこのことを書いているのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。確かに、2章6節に出てくる富んでいる人たちは、キリスト者たちを裁判所へ引っ張っていく人達ですから、教会外部の人でしょう。しかし、ここではおそらく、教会内部の富んだ人たちのことが念頭にあるのではないかと思われます。

 ヤコブが相手としている教会の内情は、決して現代の教会にとって他人事ではありません。貧富の格差は確実に教会の中にも広がっています。貧しい人たちも誇りをもっていることができる共同体としての教会の存在が問われています。

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