聖書を開こう 2015年7月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イエスとの関係を否定するペトロ(ヨハネ18:15-18,25-27)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読んでいると、様々なタイプの人物との出会いがあります。そこに登場する人々は、特別な使命を帯びた人々であると同時に、しかし、わたしたちの周りにもいる、普通の人々であることに驚かされます。勇気ある行動、信仰的な決断が描かれると同時に、道を踏み外したり、困難にうろたえたりする人間の姿が描かれています。
 今日取り上げようとしているのは、弟子の一人、シモン・ペトロのお話です。福音書の中には、主イエスの弟子として、12人の名前があがっていますが、ペトロの名前は中でも有名で、中心的な役割が与えられています。このペトロの生涯の中で、もっとも触れられたくない不名誉な出来事が記されているのが、きょうの個所です。


 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 18章15節〜18節、25節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。…(中略)…
 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 新約聖書に四つの福音書がありますが、最初の二つの福音書、マタイとマルコの福音書には、イエス・キリストが逮捕されると、弟子たちがみなその場から逃げ去ってしまったということが記されています(マタイ26:56、マルコ14:50)。しかし、ルカによる福音書とヨハネの福音書にはその光景を描く言葉がありません。確かに話の流れから言えば、大多数の弟子たちがその場から逃げて行ったでしょうが、少なくともペトロは逮捕されたキリストの後をついていきましたから、皆がその場から逃げ去ったというのは言いすぎと思われたのでしょう。

 もっとも、そのペトロも、きょう取り上げた個所にも記されている通り、キリストと自分との関係を否定して、キリストのもとから去ってしまいます。

 ヨハネ福音書の16章32節によれば、イエス・キリストはこうなることを前もってご存じでした。最後の晩餐の席上で弟子たちにこう告げています。

 「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」

 そして、ほかの福音書が記している通り、イエス・キリストが捕えられる場面では、弟子たちがキリストを置き去りにして逃げ去ってしまいました。

 ところが、ヨハネ福音書では、このキリストが逮捕される場面で、イエス・キリストの不思議な言葉が記されています。

 「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(ヨハネ18:9)

 確かに人間的な目から見れば、マタイやマルコの福音書が語っているように、弟子たちはキリストを置き去りにして逃げ去ってしまったのでしょう。けれども、キリストの目から見るならば、そのことで弟子たちがキリストの手のうちから失われてしまったと言う事ではなかったのです。弟子たちは逃げ去ったのではなく、キリストが去らせてくださったのです(ヨハネ18:8)

 さて、ペトロはこの事件に先立って、最後の晩餐の席で断言して言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ13:37)

 ペトロはその言葉の通り、イエス・キリストが逮捕されようとする瞬間に剣を抜いて、大祭司の手下であるマルコスに切りかかったほどでした。しかも、逮捕されたキリストの後を追って、大祭司の屋敷のところまでやって来るほどの勇気です。

 確かに、ここまでは主人であり先生であるイエス・キリストを守ろうとする勇気あるペトロの姿と受け取る事も出来るでしょう。

 ところが、門番の女中にキリストの弟子ではないかと問われると、即座にそれを否定しました。ヨハネ福音書は、その後も平然とそこにいつづけるペトロの様子を描いています。すこしも悪びれたりうろたえたりする様子はありません。むしろ、うまくごまかせたとでも思っていたのでしょうか。

 再び回りの人たちから、弟子ではないかとの嫌疑がかけられるときも、ペトロはすかさず否定の言葉を発します。さらに、ゲツセマネの園でペトロから剣で切りつけられた人物の身内の者がペトロを見つけて、決定的な証言を突きつけたときにも、ペトロは少しも動じないで、それを否定します。

 と、そのとき、かつてイエス・キリストが予告しておいたように鶏の鳴き声がします。

 他の三つの福音書では、ここで我に返ったペトロが泣き崩れる場面を記しているのですが、ヨハネ福音書は、一貫してペトロの感情を記したりはしません。それだけに、返って、このペトロのとった態度の罪深さが、不気味な印象を与えています。

 ヨハネ福音書がどうしてここまでペトロの感情を押さえがちに描いたのか、不思議に思えます。ヨハネ福音書が書かれる頃には、諸教会のうちでペトロの名声も固まりつつあった時代だったでしょうから、ペトロの名誉をあまり傷つけないようにとの配慮も働いていたのかも知れません。けれども、押さえがちに書けば書くほど、かえってペトロの頑なな態度が印象づけられて行くように感じられます。

 このペトロの態度を見ながら、もう一度イエス・キリストがおっしゃった二つのお言葉を思い起こしてみましょう。

 「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」

 しかし、こうもおっしゃいました。

 「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」

 キリストは罪深い私たちを深く憐れんでくださり、守ってくださるお方です。

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