聖書を開こう 2015年6月11日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 奪い去る事の出来ない喜び(ヨハネ16:16-24)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今、わたしたちはヨハネによる福音書に記された最後の晩餐の場面から学んでいます。その席上でイエス・キリストは弟子たちに多くのことをお語りになりました。その一つ一つを取り上げて学んでいます。
 ヨハネ福音書全体の特色の一つに、とても会話が多いということが挙げられると思います。出来事そのものを記す部分よりも、人々と会話をされるイエス・キリストの言葉がたくさん出てきます。特に最後の晩餐の席上では、イエス・キリストの別れの説教集とでも呼べるくらいに、まとまったお話が記されています。
 しかし、たくさんのことを聞かされた弟子たちには、戸惑いや不安があったようです。そこには自分たちの理解を超えたことがいくつも話されていたからです。今日お読みしようとしている個所にも、弟子たちの戸惑いがあらわに描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 16章16〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

 イエス・キリストは「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、ちょっと謎めいたことを弟子たちにお語りになっています。今でこそ、すべてが明らかになっているわたしたちには、ここでイエス・キリストがおっしゃろうとしていることは、だいたい見当がつきます。何のことだかさっぱりわからないというほど不明瞭なことではありません。

 イエス・キリストはこれから起ころうとしていることを見据えて、弟子たちがやがて陥る悲しみを、弟子たちが乗り越えられるようにと言葉をかけていらっしゃいます。これから十字架にかけられ、墓に葬られようとしているイエス・キリストですが、そのキリストが姿を消した後に、弟子たちを襲う深い絶望感と悲しみを見越して、必ずや再会のときが来ることを約束していらっしゃるのです。

 けれども、その時、その場に居合わせた弟子たちには、それが何のことかさっぱり分からなかったようです。互いに顔を見合わせ、どういう意味だろうかと論じ合っている様子が福音書には描かれています。

 この最後の晩餐での弟子たちの態度を読むたびに、一体弟子たちにはどれほど、キリストに差し迫っている危険について、情勢を把握していたのだろうかと考えてしまいます。

 すでに学んだ11章8節の場面には、再びユダヤへ行こうとされるキリストを、弟子たちが懸命に思いとどまらせようとしている様子が描かれていました。

 「先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で撃ち殺そうとしたばかりではありませんか」

 確かに弟子たちは、イエス・キリストの身にさし迫るただならない空気を感じ取っていたはずです。けれども、最後の晩餐では、その緊張した思いがどこかへ消えてしまったかと思えるほど、間が抜けているとしか思えない質問を繰り返します。というよりも、あまりにもキリストの発言が不可思議に満ちていたために、理解の許容量を超えて困惑していると言ったほうが良いのかもしれません。

 「(イエスの)姿を見なくなる」という部分については、弟子たちにもある程度予想が出来たでしょう。けれども、「しばらくすると、わたしを見るようになる」という言葉こそ、弟子たちにとって不可解な響きを持っていたに違いありません。弟子たちが当惑しながら論じ合っていることを悟ったイエス・キリストは、やさしく弟子たちに語りかけます。

 イエス・キリストの姿が見えなくなること、このことは、弟子たちも薄々は感じていた通り、キリストが捕らえられ、十字架上で処刑されてしまうという衝撃的な出来事でした。皮肉にも、弟子たちにとっての悲しみは、キリストに敵意を抱いていた者たちにとっては、喜び以外の何物でもありませんでした。

 「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」

 けれども、キリストはこの悲嘆に暮れ、おじ惑うことになる弟子たちに、あらかじめこの苦悩の意味を明らかにして、希望を約束してくださいます。それは丁度産みの苦しみと同じで、生まれ出る喜びを体験する時に、今までの苦しみを忘れてしまうというものです。

 イエス・キリストを失う痛みの中で、やがて生まれ出ようとしている新しい命に目を向けるようにと、キリストは弟子たちを励ましてくださいます。そのやがて生まれ出ようとしているもの、それは新しい命へと甦られるイエス・キリストご自身にほかなりません。復活のキリストに出会うとき、十字架の悲しみが大きな喜びに変わることをイエス・キリストは弟子たちに約束していらっしゃいます。

 復活のキリストとの出会いが弟子たちに与えた喜びの大きさは、どれほど大きなものだったでしょうか。それは、復活のキリストと出会った弟子たちがなした大きな働きを見るときに明らかです。十字架のキリストを見たとき、おじ惑った弟子たちでしたが、その弟子たちを奮い立たせ、世界宣教へと押し出して行ったほどの喜びです。この復活のキリストと出会う喜びによって、わたしたちもわたしたちを襲う苦しみを乗り越えさせていただくことができるのです。

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