メッセージ: キリストが与える平和(ヨハネ14:25-31)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしは17歳のときに洗礼を受けましたが、それは伝道をはじめて5、6年の小さな伝道所でのことでした。そこはアメリカ人の宣教師と日本人の牧師が協力しながら伝道をしていた教会でした。
洗礼を受けてしばらくした頃、お世話になった日本人の牧師先生が新しい伝道地へと行ってしまわれて、とても寂しい思いをしたことがありました。それから、またしばらくすると、今度は宣教師の先生が新しい場所に去って行かれ、いくつかの伝道所を担当するようになりました。信仰を持って間もない私には、お世話になった先生方を、短い期間のうちに立てつづけに送り出さなければならなかったので、とても不安な気持ちでした。特にこの二人の先生には毎週、洗礼の準備会や聖書研究会を持っていただき、信仰を養っていただきましたので、この先どうなるんだろうかという心配な気持ちがありました。
そんな経験から考えてみると、イエス・キリストと別れなければならなかった弟子たちの気持ちはどれほど不安なものだっただろうかと思います。この弟子たちに語りかけるキリストの言葉をきょうは取り上げることにします。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 14章25節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
イエス・キリストは、弟子たちと一緒にいる間に「これらのこと」をお話になったと語っていらっしゃいます。「これらのこと」というのは、ただ、最後の晩餐の席上でこれまでお語りになってきたことだけを指しているのではありません。弟子たちと今まで生活を共にして、機会あるごとにお話してこられたすべての事を含めて、「これらのこと」とおしゃっているのです。そうした、たくさんの教えをイエス・キリストは、弟子たちと一緒にいたときに話してくださいました。
そこで、イエス・キリストは弟子たちに、もう一度大切な事をここで思い起こさせてくださいます。それは、弁護者である聖霊の存在についての教えです。自分たちの先生であるキリストを失うことで不安に感じる弟子たちに、弁護者である聖霊を派遣してくださるという約束は、どれほど大きな励ましとなったことでしょうか。その聖霊がなしてくださる働きを、キリストはこうおっしゃいます。
「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
かつて、イエス・キリストが弟子たちと一緒にいてくださったときには、たくさんのことを教えてくださいました。では、キリストが去っていってしまわれたら、あとはその記憶がどんどん薄れて行ってしまうのでしょうか。いいえ、そうではありません。そうならないように、聖霊が弟子たちの心に働きかけて、キリストが教えてくださったことを思い起こさせてくださるのです。
しかし、最後の晩餐に、キリストと共に与っていた弟子たちにとっては、そういわれてもあまりピンと来なかったかもしれません。けれども、このヨハネによる福音書が書かれた時代は、そうではありませんでした。なぜなら、この聖霊の働きによって、弟子たちがキリストの約束してくださった通りに、活き活きとキリストの言葉を思い起こしていたからです。こうしてこの福音者が書かれたのも、聖霊の働きに活かされていた弟子たちの手によってでした。きっとこの部分を書き記していた時に、ヨハネの心のうちには、ほんとうにキリストのおっしゃったことが真実だということを思い起こしながら、確信を込めてこの部分をしたためていたことでしょう。
さて、イエス・キリストは続けておっしゃいました。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」
実は、ヨハネ福音書が書かれた時代というのは、クリスチャンたちにとって、決して楽な時代ではありませんでした。イエス・キリストを信じているというただそれだけの理由で苦しい思いや辛い思いをしなければならない時代でした。というのも、クリスチャンたちはユダヤ人からは会堂を追われ、ローマ帝国の人々からは胡散臭く思われていたからです。キリストの言葉によってどれほど慰めや励ましを与えられたいと願っていた時代であっただろうかと想像します。そのような時代の中で、聖霊の働きを身近に感じ、イエス・キリストの言葉を活き活きと思い出していた人々が実際にいたということです。
もし、イエス・キリストがおっしゃったことがうそ偽りであったとしたら、だれもヨハネ福音書など読まなくなったことでしょうし、なによりもヨハネ自身が福音書を残そうなどという気にもならなかったでしょう。
こうして福音書を書き残す人がいて、それを真実な言葉として読みつづけた人たちがいたという事実が、何よりもキリストの言葉を通して与えられる平和が、その時代のクリスチャンたちの心を支配していたということを物語っているのではないでしょうか。
実はこのキリストが与えてくださる平和は、聖霊が思い起こさせてくださるキリストの言葉に耳を傾ける時に、私たちにもまた与えられます。
どの時代に私たちが生まれたとしても、気楽に信仰を持ち続けることができる時代など実際にはありません。しかし、どの時代にもキリストが約束してくださった平和が信じる者たちから完全に取り去られてしまうことはありません。「心を騒がせるな。おびえるな。」と、キリストは今もわたしたちを励ましてくださいます。
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