聖書を開こう 2015年3月12日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 裏切りの予告(ヨハネ13:18-30)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どうして、イスカリオテのユダがイエス・キリストを裏切ったのか、それは誰もが知りたい事柄であるかもしれません。実際多くの人がその理由をいろいろと推測してきました。それと同時に、どうして神はユダを裏切るままに放って置かれたのか、その神秘に迫ろうとします。あるいは、結局ユダは救われたのか救われなかったのか、取り止めのない議論に夢中になることがあります。

 今日の聖書の個所には、弟子の一人イスカリオテのユダが主イエスを裏切ろうとしているということが予告されています。聖書の中で、もっとも不可解な個所の一つであると思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 13章18節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

 イエス・キリストは心を騒がせ、ユダの裏切りを予告して、こうおっしゃいました。

 「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

 ヨハネによる福音書の中では、イエス・キリストは誰かによって命を奪われるのではなく、自分から命を投げ捨ててくださる救い主として描かれています。そうだとすれば、心騒がすイエス・キリストの姿は、この福音書の描くキリスト像と一致していないように感じられるかもしれません。

 しかし、このイエス・キリストの心の動揺を、ただ裏切られて十字架に渡されることへの恐れから来るものと決め付けてはなりません。

 実は最後の晩餐が始まる前の場面で、ヨハネ福音書は主イエス・キリストが「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記しています。この最後の晩餐に描かれるイエス・キリストの姿は、一貫して弟子たちを愛されるイエスの姿です。

 弟子たちの足を洗うキリストは、もちろんユダの足も洗いました。そして、その時、「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」とおっしゃって、ユダの裏切ろうとする思いを暗示されました。もちろん、そこでユダがハッと自分自身に立ち返ることも出来たことでしょう。けれども、ユダはイエス・キリストの呼びかけに応えようとしませんでした。

 次いで、弟子たちの足を洗ったことについて、弟子たちにその意味を語り聴かせる場面でも、イエス・キリストは再びユダの裏切りを暗示されます。

 「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」

 ここでも、主イエス・キリストの言葉に、ユダは自分の思いを翻すことが出来たはずです。しかし、ユダはイエス・キリストの愛を受け止めようとしませんでした。

 そういう経過をたどって、イエス・キリストは心を騒がせて、自分の弟子による裏切りをはっきりと予告します。

 この心騒がせるイエス・キリストの姿は、弟子たちをこの上なく愛し通されようとする思いから来る動揺なのです。裏切られることがつらくて心騒がせているのではなく、キリストの愛に応えようとしない弟子のユダに、心騒がせ、厳粛に言葉を発しておられるのです。

 「あなた方の一人がわたしを裏切ろうとしている」というキリストの言葉に、今度は弟子たちが困惑し動揺してしまいます。ただお互いに顔を見合わせるだけで、どうすることも出来ない弟子の姿が描かれています。だれも「絶対にわたしではない」と断言する弟子がいないのです。そういう意味では、どの弟子たちも自分に正直であったかもしれません。自分たちが弱くて当てにならない罪人の集団であることを自覚していたのかもしれません。しかし、「それはまさにわたしのことではありませんか」と言うほどに、自分の罪深さを徹底的に認めていたと言うのでもありません。また、「それは、あいつのことだ」と心の中で断罪してしまうほど、互いに疑心暗鬼になっていたと言うのでもありません。

 ただ、何よりもイエス・キリストにとって残念であったことは、ユダ自身が自分の心のうちを指摘されながらも、なおも頑なに裏切る思いを捨てなかったということです。少なくともユダにはイエス・キリストの言葉の厳粛さがわかっていたはずなのに、その声に心を開こうとしなかったのです。

 ユダが出ていった後の情景を、ヨハネ福音書は「夜であった」と言葉を結んでいます。

 確かに、最後の晩餐が持たれたのは夜の出来事でした。けれども、ヨハネ福音書は、いつも象徴的な言葉遣いをしながら、場面の意義を語ろうとします。

 ユダが出て行ったのは夜の世界でした。イエス・キリストを取り巻いているのは闇の世界であるかもしれません。けれども、この福音書の一番最初、1章5節で言われているように、光が闇の中で輝いているのです。闇は光を理解せず、闇は光に打ち勝つことが出来ません。人間の住む世界は罪の闇に覆われています。けれども光であるイエス・キリストは闇に打ち勝ち、世を愛してくださっています。

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