聖書を開こう 2015年2月12日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イエスを信じる者は(ヨハネ12:44-50)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ヨハネによる福音書は、12章の終わりでひとつの区切りと見ることができます。それは、この世に対するイエス・キリストの一連の教えと御業が、この12章で終わるからです。13章からは、最後の晩餐でなされた、弟子たちに対する長い教えが記されます。そして、そのあとキリストの受難と復活へと続いてクライマックスを迎えます。
 きょう取り上げるのは、12章最後に記された、この世に対するイエス・キリストの一連の教えと御業を総括する言葉です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 12章44節〜50節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 きょうの箇所は、御子イエス・キリストがどんなお方であるのかを短い言葉であらわしています。ここに書かれている事柄は、すでに学んできた箇所のどこかで、一度は触れられてきた事柄であるか、あるいは、すでに学んだ事柄から導き出すことができる結論です。

 イエス・キリストは、ご自分が「遣わされてきた者である」ということをこの世に対して一貫して述べてきました。しかも、ご自分をお遣わしになったお方とご自分とが特別な関係であることも繰り返しのべてきました。

 きょうの箇所で、イエス・キリストはこうおっしゃいます。

 「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」

 ここにはお遣わしになったお方である父なる神と、遣わされてきた者、御子イエスとの一体性が強調されています。昔の預言者たちも洗礼者ヨハネも、神から遣わされてきた者という点では共通しています。しかし、イエス・キリストとの決定的な違いは、御子イエス・キリストだけが、父なる神を完全にあらわしているという点です。

 この福音書の冒頭部分でこう述べられていました。

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)

 神を完全に現すことができるという点で、御子イエスは神の最高の啓示、神のことばそのものであるということができます。ですから、御子イエス・キリストを信じるということは、父なる神を信じるというのと等しく、また、御子を見る者は、お遣わしになったお方、父なる神を見るのに等しいのです。それは、神が御子を通してご自身を完全に示してくださったということに他なりません。

 このことは言い換えるなら、御子イエス・キリストによらなければ、神を正しく知ることも信じることもできないということです。また。遣わされてきた御子を拒むということは、神を知る機会を失ってしまうということに他なりません。

 その意味で、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」とおっしゃるイエス・キリストの言葉は、この世に対する最後通告ともいうことができるかもしれません。このキリストの言葉に真摯に耳を傾け、キリストを通して神を知り、神を信じることが求められています。

 次にキリストは、ご自分が光として世に来られたとおっしゃいます。

 「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12:46)

 このことも、すでにこの福音書の中で繰り返し述べられてきたことでした。この福音書の冒頭部分で、言であるキリストには命の光があり、その光は闇の中に輝いていると記されていました(ヨハネ1:4,5)。イエス・キリストご自身、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とこの福音書の8章でおっしゃっています(8:12)。それらのことを受けての、きょうの言葉です。

 「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12:46)

 神の御心は、人が闇の中にとどまらないことです。この福音書によれば、闇は命の光と対立する概念です。闇は罪とそれが支払う報酬である死とが象徴されています。罪と死の闇から解放されて、永遠の命を得ることこそ、この福音書が書かれた目的です。そのためにキリストは遣わされてきました。

 ですから、キリストはおっしゃいます。

 「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(ヨハネ12:47)

 このことは、すでに3章でキリストがおっしゃっていたことと同じです。

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)

 神の御心は、御子によって世が救われることです。しかし、その神からの救の手を、もし拒んでしまうとすれば、もはや他に救いの手立てはありません。

 イエス・キリストはこの世に対する最後の話をこう結びます。

 「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 イエス・キリストは「永遠の命」をもたらすためにこの世に来てくださり、そのよき知らせを、少しも曲げることなく語り通してくださいました。このキリストの呼びかけに応えることは、当時の人々にだけ求められているのではありません。この福音書を読んでいる私たち一人一人に対する呼びかけでもあります。

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