メッセージ: 光のあるうちに(ヨハネ12:27-36)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
新約聖書にある四つの福音書のうち、最初の三つの福音書には「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる有名な個所があります。十字架につけられる前の晩、キリストがゲツセマネと呼ばれる園で祈られる様子を描いた場面です。やがて十字架にかけられ、死の苦しみを味わうことをご存知であったイエス・キリストが、その苦しみの杯を過ぎ去らせてくださいと祈る場面です。けれどもそれは同時に、自分の思いではなく、父なる神様のみ心のままを求める祈りでした。
ところがヨハネ福音書には、この苦悩に満ちたゲツセマネの祈りの場面がありません。そのかわり、その場面を迎えるずっと前に、同じように苦しみ悩まれるイエス・キリストの姿が描かれます。それが今日の場面です。今日の個所は、ヨハネ福音書版のゲツセマネの祈りと言っても良いかもしれません。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 12章27節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
イエス・キリストは「今、わたしの心は騒ぐ」とおっしゃいます。それは人の子が栄光を受けるときが、いよいよやって来たからです。ヨハネ福音書が告げる人の子が受ける栄光というのは、十字架の苦難の道を通って実現される栄光です。イエス・キリストが心を騒がしているのは、十字架の死に直面しているからです。しかし、それは、ただ死ぬのが怖いという恐れではありません。イエス・キリストが十字架の上でご自分の命をささげて経験される死というのは、罪人である人間が当然に受けなければならない刑罰としての死を、ご自分の身に引き受けられた身代わりの死です。それは、神から完全に見放されることを意味している死です。そういう死を身に引き受けるのですから、イエス・キリストは心騒がせているのです。
「父よ、わたしをこの時から救ってください」
こう祈られるイエス・キリストの言葉は、わたしたちが想像する以上の激しい含みがあります。
確かに、ヨハネ福音書のイエス・キリストは、羊のために進んで命を捨てることが、ご自分の使命であると語ってきました。けれども、それは決してニコニコしながら、平然と遂行できるようなものではありません。祈って祈って、祈りぬいて出た結論は、「わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」というものでした。
この苦しみに満ちた祈りによって導き出された結論、その恩恵にわたしたちはあずかっています。わたしたちが生きることが出来るようにと、イエス・キリストは、十字架の苦難の道を祈って選び取ってくださいました。
さて、福音書のクライマックスはイエス・キリストの十字架と復活の場面ですが、ヨハネ福音書では13章以下でいわゆるキリストの受難物語を描きます。ヨハネ福音書全体から言えば、4割近くがそれに当てられていることになります。その受難物語へ移る直前の個所で、イエス・キリストは、こうおっしゃいます。
「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」
アダムとエバが堕落して以来、悪の暗闇に覆われてきたこの世界が、イエス・キリストの十字架と復活によってまさに解放される時が近づきつつある、とイエス・キリストは宣言していらっしゃいます。それは、一方ではこの世の君サタンの追放として描かれますが、他方では、すべてのものをご自分のもとへと引き寄せる救いの業として描かれます。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
イエス・キリストの救いのみ業は、この両方の側面を含んでいます。闇の世界に終止符が打たれることと同時に、キリストのもとへ引き寄せられて、恵みのもとにおかれるということです。キリストの十字架は一見、悪の世界が勝利するように見えるかもしれません。しかし、そうではなくて、キリストが勝利され、ユダヤ人ばかりではなく、すべての民をご自分のもとに引き寄せられるときです。
闇の支配に終わりが告げられ、悪の支配者が追放されるのですから、悪が再びわたしたちを支配する恐れを抱く必要がありません。イエス・キリストが勝利されるのですから、キリストの完全なご支配のもとで、恵みを味わうことができるのです。
なるほど、私たちが生きる現実の世界は、今もなお悪の支配がはびこっているように見えるかもしれません。民族同士が憎しみ合う戦争はいまだに絶えません。正しいことをしているのになお苦しみを味わうことさえ、依然として続いています。けれどもキリストの勝利が確実なので、終末のときに完成される救いを、いま、ここで味わうことが出来るのです。
ですから、イエス・キリストはおっしゃいます。
「光のあるうちに歩きなさい」「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
この光とはイエス・キリストご自身のことを指しています。闇が必死に迫ろうと手を伸ばしてくる中で、光をしっかりと持って生きていくことが求められています。イエス・キリストが救いの門戸を開いてくださる間に、光のあるうちにキリストを信じて歩みましょう。
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