おはようございます。吉田信也です。
私は今から32年前、17歳のときに、当時、香美市土佐山田町にあったバプテスト派の教会で聖書とイエス・キリストに出会った理由から洗礼を受けました。その後、私は高校を出て、大学進学のために高知を離れました。高知を離れてから私は、学生時代は日曜日のクラブ活動や、就職後は自分の都合や欲望にかまけて、いつしか教会に通うことを止めていました。気づけば三十数年の月日が流れました。
しかし、自分でも不思議でしたが「主はいつも、私を見ておられる」と感じていました。それなのに、私は主に背を向けて利己的な日々を生きていました。
法律用語に「善意」と「悪意」という言葉があります。善意は「それが罪だと知らずに犯してしまう」、悪意は「それが罪だと知っているのに、それを犯す」ということです。当然この場合、圧倒的に「悪意」のほうが罪が大きく、情状酌量の余地はありません。私は常に、その裁きを恐れながら三十数年間を生きてきたのです。
その間に、妻との離婚を経験し、仕事にも行けず、職を失ったこともあります。そんなことの繰り返しの日々でした。本来、主と共に歩むべき者がそれに背を向けて生きていたのでは、正しく生きていけるはずはありません。
そして、これが私にとっての転機となるのですが、一昨年の冬、ガン闘病する母の介護で、18歳で大学進学のために家を出て以来、30年ぶりに高知に戻り、生活を始めました。それから母は、2週間後に、まるで私の帰りを待っていたかのように亡くなりました。その後は、父との二人暮らしです。私にとって、これは大きなストレスでした。18歳で家を出た頃も多感な時期で、その頃も父とはよく衝突していたのに、長く離れて暮らしたあとに帰って来て「じゃあこれからは二人仲良く暮らそうよ」とはいきません。私はそのストレスを理由にして酒に溺れ、睡眠薬や精神安定剤に逃げる日々に陥っていました。そんな私を見て、父は心配で寂しかったでしょう。
そんなある日、父が「気分転換に行こう」と、私を温泉施設に誘ってくれました。そこで偶然、父が以前からよく知っていた、改革派山田教会の牧師である牧田吉和牧師と出会ったのです。けれどもこの出会いは、あとで考えてみれば「偶然」などではなく、主が導いた「必然」でした。
そのときは温泉に浸かって、少し牧田牧師と話をしました。「機会があれば、一度教会に来てくださいよ」とおっしゃる牧田牧師に、私は「はぁ…まぁ」というような、あいまいな返事をしたように記憶しています。
温泉施設で牧田牧師から教会への誘いを受けてからも、私は教会には行きませんでした。これは、その後、牧田牧師からお聞きした話ですが、牧田牧師ご自身も「たぶん、教会には来ないだろうなあ」と思っておられたそうです。
牧田牧師との出会いから数ヵ月後の夏の暑い日、私は趣味のサイクリングのあとに自宅で倒れ、救急搬送されました。これは後に、飲酒や薬物などが誘引となり、心臓や腎臓に異常が出る病気だったことがわかりました。もしも山の中で一人で倒れていたら、命の危険もあったそうです。
手足が痺れて、全く力が入らず、呼吸が苦しい。薄れてゆく意識の中で、私は思ったのです。「今ここで死んだら、自分は主の前でどう裁かれるのだろうか?きっと『あなたのことは知らない』と言われるだろう。けれども、もしも主が、まだ私に『この世に生きろ』とおっしゃられるのなら、教会に戻ろう。そして主のために生きよう」。その時、私の心に浮かんだのが、あのとき温泉でお会いした牧田牧師のお顔だったのです。
私は、主イエスが「さあ、帰っておいで。私はそのために、お前に牧田牧師を遣わした」とおっしゃられるのを聞きました。それが、昨年の夏の終わりのことです。
このようにして主が、私を信仰と教会に引き戻してくださいました。そしてそれは、決して私自身の意思ではありません。主の意思と、ただただ、恵みによってなのです。初めて訪れた改革派山田教会で、数十年ぶりに賛美歌の中に身を置き、牧田牧師からの祝祷を受けたときの平安に、涙が止まりませんでした。
そして私は「ここが自分の立つべき場所なのだ」と感じ、大きな大きな安らぎに包まれました。
教会に通うようになってからは、父とも少しずつ理解し合えるようになりました。三十数年の後の理解と思いやりが家族の中にもありました。
最後になりますが、かつて若き日に洗礼を受けた頃の私と、今の私で大きく違うのは「祈り」です。若き頃の私はいつも「主よ、こうしてください」と祈っていました。それはまさに苦しい時の神頼みでした。しかし今は、こう祈れます。「主よ、御心のままに。どうか御心のままになりますように」と。アーメン。
きょうは、私の拙い証しを最後までお聞きくださり、ありがとうございました。