おはようございます。山田教会の、牧田吉和です。お変わりありませんか。
聖書の言葉は、私たちの道の光、私たちの足の灯火です。今朝も聖書の言葉に耳を傾けましょう。
私たちの人生の歩みの上で、挫折はつきものです。様々な挫折があります。しかし、今朝、わたしたちが考えたいと思っています挫折とは、特に罪に関係する取り返しのつかない挫折についてです。受験や就職が上手くいかなかったとか、事業に失敗したとか、それらの挫折も苦しいものです。ある場合には、社会的に責任も問われるでしょうが、必ずしも罪を犯したわけではありません。けれども、わたしたちは人生の歩みの中で取り返すことのできない罪を犯してしまうことがあります。あのーつの汚点さえなければ、自分の人生は真っ白だったのに…。拭っても拭っても、拭い去ることのできないあのたった一つの汚点のために、自分の人生はもうどうしようもない。このような罪による挫折もあるのです。
このような挫折を味わった方は、苦しみます。その時のことが頭から離れず、どんなに前に向かって進もうとしても、結局あの時の、あの過去の問題へと心が縛り付けられて行くのです。前進するどころではありません。自分の心の中に氷を抱いているかのように、あるいは自分の心の中に刃を飲み込んでいるかのように、時間が経てば経つほど、心は冷やされ、心はズタズタに切り裂かれて行くことになります。
聖書の中でも、イエス・キリストを銀30枚で売り渡し、裏切ったユダは、最後には自分の命を断ってしまいました。それは、暗い過去への後ろ向きの悔恨の道が死にさえつながる道であることを象徴的に示 しています。
聖書が、「世の悲しみは死をもたらす」といっているのは、このような過去の罪をただ悲しんで後悔するだけの生き方のことをいっているのです。
しかし、聖書はもう一つの道を指し示しています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」といっています。たとえ過去の取り返しのつかない罪であったとしても、神の御心に適った悲しみの道があるのです。それは、悲しんで悔い改める道です。ただ、悲しんで後悔するのではなく、悲しんで神に対して悔い改める道です。後ろを向いて後悔するのではなく、後ろの問題を神の前にさらけ出し、神に対して心から罪を告白し、悔い改めることです。この道は、取り消されることのない救いに導くものなのです。
なぜこの道が救いに導くのでしょうか。ただ一つの理由は、イエス・キリストの十字架にあります。
新約聖書ヨハネの手紙一 4章10節は次のように語っています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。イエス・キリストは、わたしたちの罪をすべて十字架の死によって償ってくださいました。
聖書は驚くべきことを語っているのです。悔い改めて、このイエス・キリストの十字架を信じるのであれば、わたしたちの罪はことごとく許されるのです。信じがたいことですが、聖書はこのことを断言しているのです。神はイエス・キリストを遣わし、十字架につけるほどまでの愛と熱情をもって、わたしたちの罪を赦そうとしておられるのです。ですから、過去の忌まわしい罪をも十字架の下に投げ出し、悔い改めてイエス・キリストを信じることが大切です。それが神の御心に適う過去の罪の悲しみ方なのです。神は、確かにわたしたちの罪を赦し、わたしたちの良心に深い平安を与えてくださるのです。イエス・キリストの十字架の罪の贖いが完全である以上、この救いは取り消されることがありません。
聖書の中に、姦淫の女の話が出ています。人々は、当時のしきたりに従い、この姦淫の女を石で打ち殺そうとしました。しかし、イエス・キリストはこの女に対しておっしゃいました。「あなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
イエス・キリストを信じる人には、今もイエス・キリストは宣言されます。「あなたを罪に定めない」。今や、神の前に胸を張り、顔を上げて、前に向かって神と共に歩み始めるのです。新しい人生が始まるのです。