おはようございます。松山教会の久保浩文です。
イエス・キリストは、ガリラヤ湖の周囲で神の国の教えを語り伝えていました。イエスの行かれる所には、ご自分の十二人の弟子はもちろんのこと、イエスを一目見よう、その話を聞こう、という群衆で黒山の人だかりでした。イエスは、絶えず押し寄せる彼らに御言葉を語り、病気の人を癒し、昼夜を問わず、ほとんど休みなく働いておられました。
そんな中にも、イエスが一人の時間を過ごされる時がありました。群衆を解散させ、弟子たちとも離れて「祈るためにひとり山にお登りになった」のです。(マタイ14:23)
イエスは、肉体の疲れだけでなく霊的な疲れをも癒し、次の働きのためにリセットするために、父なる神との交わり、祈りの時間を大切にしておられました。
聖書を読みますと、祈る姿のイエスによく出会います。イエスの地上での働きの支えとなったのは、この「祈りの時」なのです。
私たちにも神に祈りたい、と思う時があります。クリスチャンでない方でも、何かにすがりたい、癒されたい、助けてほしい、という時があるのではないでしょうか。ただの休養や気分転換では癒されない疲れ、考えても考えても解決できない悩み、…そういう時に、祈りのようなものを心に浮かべていないでしょうか。
イエス・キリストは、ご自分が祈られただけではなく、ご自分を信じる者みなが祈れるように、祈りの道となってくださいました。イエス・キリストは弟子たちに「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。(ヨハネ14:13)」と言われました。
私たちは本来、神に祈ることも近づくこともできませんが、キリストを通して神に近づくことができる、つまり、祈ることができるのです。
今、イエス・キリストは、天上におられ、ご自身の御霊をお送りくださって、私たちが神を「父よ」と呼んで祈ることができるようにしてくださっています。
また、私たちが、どのように神に願い、祈ったらよいのか分からなくても、天におられるキリストが、私たちが祈るよりも先に、すでに私たちのためにとりなし、祈ってくださっています。たとえ私たちが、祈る言葉さえなく、心の中で呻き、無言の叫びをあげていても、キリストが完全な祈りにしてくださって、父なる神の御元に届けて下さいます。
イエス・キリストのとりなしと助けによって、神は、私たちの罪を赦し、様々な心の重荷、思い煩いから解放してくださるのです。
私たちは、キリストのとりなしによって「神の前」にあることができ、神と対話をすることができるのです。キリストによって、私たちは毎日でも、日に何度でも、祈ることができます。
まだ祈ったことがない、というあなたも、この祈りの道を見つけてください。心を静めて祈る度に神の存在を感じ、真の平安をいただくことができるでしょう。
最後に聖書の御言葉をお読みします。
「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:5-7)