おはようございます。高知教会の土田靖昭です。
今朝は旧約聖書に度々登場する羊飼いについてお話します。
わたしたちが暮らしている町では、牛の放牧を見ることはあっても、羊の放牧を見ることは、ほとんどありません。でも古代イスラエル民族にとって羊の放牧は、よく見かける風景です。ユダヤの人たちにとって羊は大切な財産です。でも羊はとても弱い動物で、自分で危険から身を守る術を知りません。そこで人がかわってその役割をすることが必要になります。それが羊飼いです。
羊飼いが羊の世話をする様子を少し紹介します。
ユダヤの国の中央を丘陵地帯が縦に延び、西には荒野があり、東には死海へと続くその狭い台地には草がまばらにしか生えておらず、羊を守る柵もありません。そんな危険な場所で羊は放牧されていたのです。一度高原の草地から迷い出たら、ハイエナや野獣の餌食になるか、渓谷に落ちて死ぬかのどちらかです。
そんな危険から羊を守るために、羊飼いは野宿をしながら一睡もしないで、雨が降り風が吹いても武器を手に、杖によりかかって散っている羊の番をしなければなりません。たとえ自分の身が危険にさらされようとも、羊を守り、そして安全な場所に連れて帰る、それが羊飼いの仕事です。
羊飼いという言葉は、神を表現する言葉の中では最も古いものです。例えば創世記48章15節に「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。/わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。」と書いていますし、詩編23編1節に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と詩編記者も書いています。又、預言者ミカもミカ書7章14節に「あなたの杖をもって/御自分の民を牧してください/あなたの嗣業である羊の群れを。」と書いています。
古代イスラエル民族は、いろいろな民族から侵略され、民の安全と平和が脅かされていました。そこでイスラエル民族だけの神、強い神様を求めたのです。そうした不安定な状況の中、羊飼いが羊一匹一匹に気を掛け、自分を犠牲にしても羊のことを第一に考え、力強く羊を導く羊飼いの姿を主なる神様と重ねて歴史の表舞台に登場させたのです。
その願いは、キリストによって成就しました。新約聖書ヨハネによる福音書10章11節に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とイエスが言っています。イエスも自分を羊飼い、そして民を羊と重ねあわせて語っています。羊飼いが羊を大切に扱うように、イエスは人間一人一人を愛しておられ、神様から離れよう離れようとする罪深いわたしたちを、羊飼いと同じように自らを犠牲にして助けに来てくださいます。
でも、イエスはイスラエル民族だけの神様ではありません。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」そう言って今も生きて働かれ、迷える羊を探し続けていてくれるのです。
本当の幸とは何か、自分の進むべき道を求めてあれこれと悩んでおられる方、少しの時間でかまいません。静まったところで目を閉じてください、聖書を開いてください。そうすれば羊を探し求める羊飼い、イエスの声があなたにも聞こえてくるはずです。なぜなら「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」なのですから。