イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)
おはようございます。宿毛教会の酒井啓介です。聖書では、まことのクリスチャンはやがて復活する、と約束されています。イエス・キリストは私たちの罪を担うために十字架にかかって死に、その三日後に栄光の体をもって復活をされました。聞いたことのある方も多いかと思います。キリストの復活は、クリスチャンたちの復活の先取りなので、クリスチャンにとって最大の希望です。
ところで誤解されやすいのが、復活とは、死んでまた生き返るという、ただ生き返るだけという意味に取られる誤解です。特に、死んだ後の話であって、今の生活への意味がなさそうに誤解されるかもしれません。これに関して私の経験談を一つ交えてお話しします。
私が司式させて頂いた、キリスト教のお葬式で、参列者の一人の方とお話ししました。その方はクリスチャンではありませんが、とても誠実な方で、私の尊敬する人の一人です。その方は、天に召された方を思い返しながら、こう語りました。「復活を信じて希望をもって亡くなることができるのは、本人にとって幸せなことだと思います。でも、私は、復活したいとは思わないんですよ。家族に愛され、人に恵まれて満たされて生きられればすごく感謝なことで、もう十分なんですよ。それで、なお、復活してまた生きたいなんておこがましいように思えるんです…」
私は、この方のお気持ちがよくわかります。聖書を知らない人の、とても自然な、誠実な感覚だと思います。
この問いかけに対する復活の答えは難しくありません。
「復活とは、神のために犠牲にしたことがすべて報われるということ」と説明できます。神のため、真理のための犠牲がすべて、またそれ以上に報われる。
すべてが報われる姿こそが、キリストの復活の姿に表われています。人々の救いのために十字架にかけられる時、人々から傷つけられ、捨てられ、何もかも失い、命も失い、父なる神からも捨てられました。しかし、三日目に完全に報われて復活なさいました。
今、復活のありがたさというのは、神のために、自分が損をし、犠牲を払い、痛みを担ってきたことが多い人ほどわかるでしょう。本当に大きな犠牲を払うからこそ、全てが報われて復活したいと健全に思うことができます。言葉にできない程、大きな犠牲を今も、神のために払い続けている方もおられるでしょう。その犠牲を一つ一つ数える時、そのすべてを復活において神が報いて下さいます。復活の時、少なくとも、私たちは神の為に生涯で犠牲にしてきたこと、捧げてきたことで、身を飾ることになるでしょう。
最後に、復活が今の生活にもたらす意味は、神のために、いやいやではなく喜んで犠牲を払える。真理のために善のために、喜んで犠牲を払えるようになる、ということです。人々が避けるようなことでも、神のために、真理の為に犠牲を払う。それを神は復活において豊かに報いて下さいます。復活を、日常の希望におきましょう。この神の恵みは、私たちを新しくします。
最後に聖書に登場するパウロの言葉を引用します。
「(わたしは)悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(2コリント6:10)