いかがお過ごしでしょうか。東京練馬の光が丘にあります東洋宣教教会で牧師をしております、尾崎純と申します。
こんな言葉を聞いたことがあります。「四葉のクローバーを探すのに、三つ葉のクローバーを踏みにじってはならない。幸せはそんなふうにして探すものじゃない」。その通りだ、と頷きました。
けれども最近、こんな話を聞きました。「クローバーが若葉のときに出来た傷から、四葉のクローバーは生まれる」。…ということは、「三つ葉のクローバーを踏みにじって探す」ことによって、クローバーは四葉になるわけです。…そんなことを言われてしまうと、考え込んでしまいそうです。
けれども、そうだとしたら、「三つ葉のクローバーを踏みにじって探す」その人には、四葉のクローバーは見つけられないということになりますね。誰かが踏みにじって探したあとに、四葉のクローバーは生まれるんですから。踏みにじられたそのあとを、それでもなお探す人が、四葉のクローバーを見つけるんです。
イエスさまのなさったことは、四葉のクローバーを探すことだったと思うんです。踏みにじられた人のところに行って、その人を愛した。四葉のクローバーを探したいと思います。
そして、イエスさまは、四葉のクローバーだったとも思うのです。自分が傷つけられることで、多くの人を救った。四葉のクローバーでありたいと思います。踏みにじられても愛を与える、四葉のクローバーでありたいです。