いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山昌樹です。
私たちは普段、街中を歩いております時に、石などに躓くことはあまりないかもしれません。一方で、躓く、という言葉は、「たとえ」として使うこともできます。例えば、人に躓く、というような言い方です。
ある時、主イエスは弟子たちに対して、人を躓かせることの恐ろしさを語られました。しかし、そのすぐ後で、まず大切なのは、あなたたちが躓かないことだと言われました。では、その場合の躓きとはなんでしょうか。
主イエスがここで問題にされているのは「命」であり「神の国」です。どちらも、聖書において特別な意味を持つ言葉ですが、ここではひとまとまりに「信仰に関わること」としてみます。
改めて私たちの日常生活を振り返りますと、「信仰に関わること」にずいぶん躓いているような気がします。しかし、主イエスは、もし、あなた方の手が、あるいは足が、あるいは目があなた方を躓かせるのなら、それを切り捨て、えぐりだしたほうがいいとまで言われました。
もちろん、これは極端な言い方です。けれども「信仰に関わること」で人を躓かせ、自分も躓いている限り、殺伐とした歩みが待っている、とも言われました。
私たちが自分の人生を大切にしたいのならこの躓きを取り除くべきで、そのために自分の中に塩を持つようにと主イエスは言われました。これもまた「たとえ」です。生まれたままの心にはひりひりするかもしれない、神様からの塩を持つことが私たちには必要なようです。