おはようございます。埼玉県の川越教会の木村香です。
まことに残念なことに、わたしたち人間に一番分かりにくいのが、キリストの十字架です。「十字架のつまずき」(ガラテヤ5:11)と言う言葉があるくらいです。それは理屈として分かりにくいのではありません。理屈は分かるのです。そうではなくて、本当にこのイエス様の十字架がなければわたしは罪によって滅びる、望みはない、という実感です。だから、イエス様が十字架に架かってくださったから、これほど愛されているんだから、天国に行ける、という押さえきれない喜びもないのです。
わたしたちは自分を完全無欠だとは思いません。しかし、自分の罪なら自分で始末できる、と思います。神様の手助けはありがたいが、しかしイエス様の十字架なんて、身代わりなんて何のこと?
クリスチャンになっても、この点はなかなか実感として腹にはまりません。イエス様の十字架はよく分かっているつもりでも、心の中にこの思いが一杯になりません。口ではなるほど罪人ですと言うのですが、次の瞬間にはもう他のことで心が占められてしまいます。それはクリスチャンになっても、罪の性質が依然として残っているからです。
初めは親の愛が十分に分からなかった子供が、自分が成長するにつれてそれが分かってくるように、わたしたちも初めはイエス・キリストの愛が十分には分かりません。
しかし、「わたし」という人間の罪が分かると、しかもどれほど罪深い人間かが分かると、自分を犠牲にして他人を救う、しかも自分の敵であったものを救う、そのキリストの愛が分かるようになります。