おはようございます。仙台教会の風間義信です。
今年も各地の神社やお寺は、初詣で大賑わいだったようです。でも、普段、日本では宗教の話は話しづらく、信仰を持っているとなりますと、どこか変わり者のように思われがちです。特にキリスト教に対してはそうではないでしょうか。よく目に見えないものを信じられますねと言われてしまいます。
確かにまことの神様は目に見えるお方ではありません。そこで見えるものしか確かめることの出来ない私たちにとっては、いると思えばいるかも知れないし、いないと思えばやっぱりいないというような、どことなくあやふやな感じになってしまいます。けれども、まことの神の存在はあやふやではありません。なぜなら、その神様が私にもしっかりと確認できるようにと人となられたのがイエス・キリストだからです。
この方の語られた言葉、その行動、それらのすべてによって、神とはどのような方であるかが示されています。でもどうでしょうか。キリストと言えども、最後は十字架に架けられ、弱音を吐いているではないかと言われそうです。しかし、そうではありません。その叫びは私たちの苦しみを背負ったものであり、私たちのために逃げずに耐え忍ばれたのです。なぜなら、神は遠くにおられて黙っている方ではなく、私たちの思いを理解し、負いきれないものを代わって負って下さるからです。
このことを素直に認め、このキリストに神を見ることが出来るならば、それは決してあやふやなことではなく、確かな存在が私たちを支えていることになるのです。