聖書を開こう 2014年10月23日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 羊飼いと羊(ヨハネ10:1-6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 子供が自分の母親を見分ける力は、生まれたばかりの赤ちゃんにも備わっているということを何かの番組で見たことがあります。母親の母乳のしみたガーゼと他人のお乳のしみたガーゼを赤ん坊の鼻先に持っていくと、ちゃんと自分の母親のお乳の匂いをかぎ分けるそうです。まだ、何もわからないような赤ちゃんでさえ、ちゃんとお母さんがわかるのですから、本当に不思議です。
 わたしの子供がまだ小さかったころ、人ごみの中で、よその人にくっついて行ってしまったことがありました。小さな子供の狭い視野には、似たような服装の一部分しか目に入らなかったのでしょう。しばらく様子を見ていると、自分の間違いに気がついた子供は、大泣き顔で親のところに飛んできました。子供にとってはばつが悪いという思いよりも、むしろ、瞬間、自分の母親から離れてしまったことの不安の方が大きかったのだと思います。
 さて、今日お読みする個所には、羊飼いと羊との関係が美しく描かれています。私は羊を飼ったことはありませんが、羊という動物も自分の飼い主をよく見分けるそうです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ヨハネによる福音書10章1〜6節までです。新共同訳聖書でお読みします。

 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 今まで5回にわたってヨハネによる福音書の9章を学んできました。今日から第10章に入りますが、この章は、実は9章から続く一連の場面です。ちょっとおさらいになりますが、9章では目の見えない人がイエス・キリストによって、その視力を回復していただいた出来事を学びました。そして、そのことをきっかけに、イエス・キリストがどういうお方であるのか、心の目ではっきりと見ることのできる人と、かえって心の目を閉ざして行く人たちとに分かれて行く様子を見てきました。
 心を閉ざす人たちのグループの代表がファリサイ派の人たちでした。このファリサイ派の人たち、とりわけファリサイ派の律法学者たちは、ユダヤの民衆を指導する立場にある人たちでした。ユダヤの人々を羊にたとえるとするなら、このグループの人たちは、羊を養う羊飼いにたとえることができます。けれども、イエス・キリストは彼らを「盗人であり、強盗である」とおっしゃいます。羊の囲いを乗り越えて、羊をさらって行こうとする泥棒と同じだというのです。
 それもそのはずです。せっかく心の目が開かれて、救い主を見出した人をつかまえて、信仰から離れさせようとしているからです。

 こうしたことは、イスラエルの長い歴史の中で、今に始まったことではありませんでした。旧約聖書の中にも、羊飼いであるべき民の指導者たちが、その務めを真摯に果たさずに、羊たちを路頭に迷わせる様子が批判的に描かれています。

 たとえば、預言者ミカヤはイスラエルの王アハブに呼ばれて預言した時に、こう言いました。

 「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。」(列王記上22:17)

 これは、イスラエルを異教の神バアルによって惑わしたアハブ王に対する痛烈な批判です。

 同じように、預言者エゼキエルもイスラエルの指導者たちを批判して言いました。

 「まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。」(エゼキエル34:8)

 さて、羊飼いのふりをした泥棒が入ってきたとしたら、これは大変なことです。うっかり自分の飼い主と間違えて後をついて行くようなことでもあれば、羊にとっては命取りです。憩いの水にも緑の牧草にもありつくことはできません。野獣に襲われるようなことにでもなれば、偽の羊飼は、羊を置いて一目散に逃げてしまうことでしょう。

 同じことは人間にとっても言えます。本当の指導者でもない、本当の助け手でもない人について行けば、正しい道を歩むことができません。ただ正しい道を歩むことができないというだけならまだしも、その結果起こるあらゆる災難を、自分の身に蒙らなければならなくなってしまいます。わたしたちが、もしこんな危険にいつもさらされているとしたら、気が気ではありません。いつもびくびくしながら、だまされないように注意していなければなりません。

 けれども、こんな危険にさらされたとしても、羊にはちゃんと飼い主を見分けることができる力があるとイエス・キリストはおっしゃいます。羊は自分の羊飼いの声を知っているので、間違うことなく本当の羊飼いの後をついて行くというのです。ちょうど、ヨハネの9章で学んだ、あの目を癒された男の人が、さんざん人々からの取調べや、嫌がらせを受けても、イエス・キリストの声を聞き分けて、従って行ったのと同じです。すべてキリストの羊はその飼い主であるキリストの声を聞き分けるとおっしゃるのです。

 番組の始めに例をあげた赤ちゃんが、誰に教えられなくても自分のお母さんのおっぱいのにおいを区別できるように、キリストの羊にも自分の飼い主がわかる力が与えられているとイエス・キリストはおっしゃいます。偽りの声と真実の声とを聞き分ける力が与えられているのです。神は安心して信仰生活を送ることができるようにと、そのような力をキリストの羊たちにお与えになってくださっているのです。

 本当の羊飼いは、羊一匹一匹の名前を呼んで連れ出すとイエス・キリストはおっしゃっています。そもそも羊が飼い主を見分けることができるのは、羊飼いが一匹一匹の羊を区別して呼ぶことができるからです。イエス・キリストは羊飼いのように、ご自分を信じる者たちの名前を呼んで、一人一人を区別することがおできになります。けっして、十把ひとからげの集団としてわたしたちを見ているのではありません。一人一人に目を留め、一人一人の様子を把握し、一人一人の必要をご存知なのです。そのような羊飼いであればこそ、羊もまた飼い主をよく知ってついて行くことができるのです。

 イエス・キリストとわたしたちの関係は、恵みにあふれた親密な関係です。このような関係の中に、主イエス・キリストは私たちを招いてくださっているのです。

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