メッセージ: 見えるということ(ヨハネ9:35-41)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
牧師をしていて一番嬉しいと感じることは、教会へ足を運ばれた方の心が開かれて、イエス・キリストを信じるようになる様子を見ることです。そして、牧師をしていて一番不思議に思うことは、このイエス・キリストを信じるということが、その人の学力や学識、その人の今までの生活体験と必ずしも対応関係にないということです。ある人がすんなりと信仰に入り、ある人がなかなか信じることができない、と言う事実を何度も目にしてきます。そのたびにそのことを不思議に思います。どうしてそうなるのか、法則性を見出すこともできませんし、対策を立てるということも出来ません。そうであればこそ、ある人が信じる決心をするときには、この上ない喜びを感じます。逆にかたくなに心を閉ざしてしまう人を見ると、とても悲しい気持ちになってしまいます。
さて、今、ヨハネによる福音書の9章から学んでいますが、ここには目の見えない一人の男の人が、イエス・キリストによって視力が回復されるお話が記されています。しかし、見えるようになったのは、肉の目ばかりではありませんでした。心の目も開かれて、イエス・キリストを信じるようになります。他方、そのいきさつを見聞きした人々の中には、ますますイエス・キリストに対して心を閉ざしていく人も出てきます。きょうはその一連の出来事を記したヨハネ福音書の記事の最後の部分をご一緒に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所はヨハネによる福音書の9章35節〜41節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
ヨハネによる福音書の特徴のひとつに、「見る」という言葉が、福音書全体にちりばめられているという点を上げることが出来ると思います。この福音書の序文とも言える第1章には、私たちのうちに肉体をとって宿られたイエスについて、こう言われています。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」
イエスのうちに宿る栄光を見た、ということが、この福音書全体を流れるひとつの大きな主張点として福音書の序文で告げられます。
イエスよりも一足先に使わされた先駆者バプテスマのヨハネは、イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言います。「この方を見よ」と人々の注意を促します。
また、一足先にイエスと出会ったフィリポはその友達であるナタナエルに「来て、見なさい」と言って、イエスに会いに行くように誘います。
さらにイエス・キリストご自身も弟子の一人であるトマスにこうおっしゃいます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
こうしてみてくると、ヨハネ福音書の中で、「見る」ということはとても大きな働きを果たしているということができると思います。けれども、「見る」といっても、それはただ肉眼に映るということではありません。肉の目に映ったものを、心で受け止める、言いかえれば、ヨハネ福音書が問題にしている「見る」ということは「信じる」ということと深い関係があるのです。ヨハネ福音書が「見る」ということを強調するのは、それによって信仰へと導かれることを願っているからです。
しかし、いくら「見る」ということを強調したとしても、イエス・キリストを実際に見ることのできた人たちは限られています。イエス・キリストにお目にかかれた人たちは、あの時代、つまり2千年前に、あの場所パレスチナで生きた人たちだけです。ヨハネによる福音書を最初に読んだ人たちの世代でさえ、キリストの時代から半世紀以上もたっているのですから、実際にイエス・キリストを目の当たりにした人はほとんどいなかったことでしょう。ですから、「見る」ということを強調するヨハネ福音書の意図が、文字通りに「見る」ということを期待していなかったことは明らかです。そうであればこそ、「肉の目で見る」「肉の目に映る」ということ以上に、心の目で見て信じることの大切さが、この福音書ではいっそう際立たされています。
さて、イエス・キリストはいつまでもご自分のことを頑なに拒みつづけるファイリサイ派の人たちに対して、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」とおっしゃっています。見えない者というのは、この場面では、実際に目が見えない人々を指していると同時に、ファリサイ派の人々から見て、何もわかっていないと思われていた人々の事を指しています。イエス・キリストは、その人こそ見えるようになる、キリストの真実な姿を見て信じるようになるとおっしゃいます。
それに対して、「見える者は見えないようになる」とは、ファリサイ派の人たちのように、自分ではわかっているつもりの者たちが、事柄の本質を見ることができなくなってしまい、神がお遣わしになったキリストを信じることができなくなってしまうということなのです。
この逆転劇を、イエス・キリストは「裁き」と呼んでいます。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
キリストの裁きとは、人間が罪のうちに閉じこもることによって、自分で自分に引き起こしてしまう悪い結果なのです。イエス・キリストは言葉を続けられます。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
心の目で見ていない、事柄の本質が見えていない、したがって信じるべきものを信じていない、それなのに「見える」と言い張るところに、わたしたちの罪深さが横たわっているとイエス・キリストは指摘なさいます。
これは当時のファリサイ派だけの問題ではありません。心の頑なさは罪深い人間が生まれ持っている性質です。イエス・キリストによっておごりを取り除かれ、心の目を開いていただかなければ、キリストの真の姿を見ることはできないのです。この福音書の中で、何度も繰り返される「見る」という言葉、その見ることを可能にする「目」をキリストからいただいて、神様の真理をもっとよく悟らせていただくように、祈りもとめて行きたいと思います。
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