メッセージ: 今は見える(ヨハネ9:24-34)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人がキリスト教の信仰を持つようになるのは、神のことばである聖書を学ぶことによってなのか、それとも神との出会いを経験することによってなのか、果たしてどちらなのでしょう。もし、神との出会いの経験が信仰を呼び起こすのだとしたら、そのような信仰は主観的だと言わざるを得ません。何をもって神との出会いとするのかも主観的な上に、そうして起こされた信仰の内容は際限なく広がって、信じる人それぞれで信じる内容が違ってきてしまいます。
しかし、聖書を学ぶことによって信仰が起こされるのだとすれば、信仰とは結局知識の問題になってしまいます。それは知っているか知っていないかの問題であり、知っていることに同意するかしないかの問題になってします。
信仰とはただ知識によって得られるのではなく、知識として知った神に、どこかで出会う経験が必要です。あるいは逆に、出会ったと主観的に思っていた神が、まぎれもなく聖書の神であるという確認作業が必要です。
きょう取り上げる個所には、経験と知識とに導かれて、神の御業に対して確固とした信仰を持つにいたった男の話が出てきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 9章24節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
前回に引き続いて、生まれつき目の見えない男の話を取り上げています。この人はイエス・キリストによって目が見えるようになりましたが、ファリサイ派の人々の多数派は、それを神のなさった奇跡とは認めませんでした。むしろ、安息日を破ってまで、癒しの業を行うイエスを罪人であると断罪します。
きょう取り上げる個所は、視力を回復された男が再びファリサイ派の人々の前に呼び出されて尋問を受ける場面です。
ファリサイ派の尋問は、一見信仰深そうに見えて、その実は真理の探究というよりも、自分たちの権威への服従を求めています。
「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
原文では「神に栄光を帰せよ」という表現が使われていますが、その意味するところは、罪の告白を迫る言葉です。かつて旧約の時代に、アカンという人が敵から略奪したものを隠し持っていたとき、ヨシュアがアカンに対して罪の告白を迫るときに使った表現と同じです(ヨシュア記7:19)。神に栄光を帰し、過ちを自分に帰することを迫る表現です。
では、いったいファリサイ派の人々はこの男にどんな過ちを認めるようにと迫っているのでしょうか。目が見えなかったのに、見えるようになったということが間違いだったと言わせたかったのでしょうか。それとも、この奇跡を行ったイエスを神からの預言者だと信じだことを、間違いだったと告白させたいのでしょうか。
ファリサイ派の人々にとっては、どっちの答えでもよかったでしょう。すでに自分たちは、イエスが罪ある者だと決めつけているからです。その権威ある判断に同意し、服従してくれさえすればよかったのです。
ファリサイ派の人々がイエス・キリストを断罪した根拠は、安息日に癒しの業を行ったからでした。しかし、この判断は律法の精神である「愛」に照らして、イエス・キリストの御業を見たのではなく、律法を形式的にあてはめたにすぎないものでした。この自分たちの判断に同意して、自分の過ちを認めるようにと迫るファリサイ派の人々に対して、キリストによって癒されたこの男は堂々と答えます。
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
ファリサイ派の尋問に真っ正面からは答えずに、まずは自分自身の体験を主張します。何よりも、これは動かしがたい事実だからです。目が見えなかった自分が、今は見えるようになっているこの事実、この事実を誰もひっくり返すことはできません。
その上で、この男は自分を癒してくれたお方のことを、聖書の教えに照らしてこう考えます。
第一に、神は罪人の言うことはお聞きにならないけれども、その御心を行う人の言うことは、お聞きになるということ。
第二に、生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがないという事実です。少なくとも旧約聖書の中には、生まれつきの盲人を癒した話は出てきません。
これら二つのことに照らして、この奇跡をおこなってくださったお方が、いったいどこから来られたのか、そのことをファリサイ派の人々に問い返します。
ファリサイ派の人々は、自分たちはモーセの弟子であり、モーセは神から遣わされた方であると主張しましたが、イエスについてはどこから来たのかわからないと断言していました。しかし、ファリサイ派の人々の主張よりも、この癒された男の主張の方がはるかに雄弁に真理を語っています。
この癒された男の人は、ほとんどキリストを信じたといっても良いでしょう。自分自身の身に起こったことを、聖書の教えに照らして考えるときに、ゆるぎない信仰へと導かれるのです。
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