メッセージ: 悪意ある問い(ヨハネ9:18-9:23)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
疑問を抱くということは、人間にとってとても大切なことです。当たり前と思っていたことを、あらためて問い直してみるときに、新たな発見につながっていくからです。
しかし、それがほんとうに疑問として問いかけられるときにはそうなのですが、しかし、すべての問いかけが純粋な疑問から出ているというわけではありません。
人は時として、あらかじめ用意された答えに相手を導くために問いを発します。これは教育的な目的のために使われることがあります。自分で答えを考えさせて、答えを自分で発見できるようにする教育的な問いかけです。
しかしまた、相手を窮地に追い込むために悪意ある問いを発することがあります。たとえば、かつてキリスト教会やクリスチャンたちを迫害するために、「天皇とキリストとどちらが偉いのか」という質問が使われました。もし、キリストであると答えれば、万世一系の天皇が国を治めるという大日本帝国憲法の教えに合わない、危険な思想の持ち主として迫害されることになりました。しかし、もし天皇であると答えれば、迫害の手からは逃れることができても、教会は信仰の自由を失って、国家権力の言いなりにならざるを得なくなります。結局、この問いはどう答えようとも、キリスト教会にとって不利益な結果しかもたらさない悪意ある問です。
きょう取り上げる個所にも、一見、真理を探求すると見せかけて、相手を窮地に落としいれようとする悪意ある問いかけがなされています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 9章18節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
先週に引き続き、生まれつき目の見えなかった男の癒しの記事から学んでいます。
目が見えなかった人の視力が回復される…このことは単純に考えれば、とてもうれしい話です。いったい誰がこのような出来事に対して、不愉快な思いになるでしょうか。いったい誰がそのような喜ばしい出来事に対して、腹立たしい思いになるでしょうか。
しかし、現実は、みんながこの出来事を喜んだわけではありませんでした。問題の争点は二つありました。一つは、この男が、本当に生まれつき目が見えなかったのかどうかということ。もう一つは、もし見えなかったのだとすれば、どうやって目が見えるようになったのか、ということです。
この問いは、視力が回復されたとされる本人に対してすでになされた質問でした。そのことについては前回の学びで学んだとおりです。本人がいうのですから、それ以上確かな答えはありません。
しかし、「それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった」というのが、きょう取り上げた箇所の出だしです。
もちろん、そのようなユダヤ人たちの態度を、懐疑的で疑り深いと決め付けてしまうことはできないでしょう。疑念が残らないように、納得いくまで調べることは大切です。
そこで、今度は本人ではなく、本人の両親が呼び出されます。
「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」(ヨハネ9:19)
ほんとうに生まれつき目が見えなかったかどうかは、本人はもとより、親たちも知っていることです。それに対する両親の答えは、事実を淡々と述べたものでした。
「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。」(ヨハネ9:20)
けれども、第二の質問に対しては、明確な答えを避けています。
「しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」(ヨハネ9:21)
この両親の答えが、どこまで本当のことを語っているのかはわかりません。ただ、ヨハネ福音書の記者が述べるところによると、この両親のはぐらかすような答えは、「ユダヤ人たちを恐れていたからである」ということでした。というのも「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」からでした。
歴史的なことを言えば、ユダヤ教とキリスト教とが決別するようになったのは、当然イエス・キリストの時代のことではありません。一般にはヤムニアでユダヤ教の会議が開かれて以降の時代、一世紀の末か二世紀の初頭であるといわれています。そこで、聖書学者たちは、このヨハネ福音書の記事は、自分たちの時代のキリスト教会とユダヤ教との対立を、ここに反映させているのではないかと考えています。
たとえそうであったとしても、この両親が感じた恐れは、このヨハネ福音書が記す時代の中でも十分読み取ることはできます。なぜなら、もともとファリサイ派の中にも「イエスは、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいて、意見は二分していたはずなのに、いつしか、「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」(ヨハネ9:24)という意見が多数を占めていくようになったからです。つまり、本人を呼び出したり、両親を問いただしたりしているのは、結論が先にあってのことなのです。どう見ても真実を明らかにしようとしているのではありません。決まった結論に導くための威圧的な質問に過ぎなかったのです。
口を封じるための質問、それは悪意に満ちた質問です。しかし、この悪意に満ちた質問こそ、彼らの心の目が閉ざされていることを雄弁に語っているのです。
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