聖書を開こう 2014年9月4日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神に属する者は(ヨハネ8:39-47)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「蛙の子は蛙」という諺があります。それに対して、「蛙の子は蛙じゃなくて、オタマジャクシではないか」と冗談を言う人がいます。しかし、この諺は、まさに蛙の子が、蛙とは似ても似つかないオタマジャクシであることからきている諺です。オタマジャクシは一見蛙とは違う特別な生き物のように思われます。しかし、結局は蛙にすぎないというところから、子どもの性質や能力は親に似るものだという意味につかわれます。

 では、わたしたちは誰の子なのでしょうか。聖書には、神は人をご自分にかたどって創造されたとありますから、神に似た神の子なのでしょうか。

 イエス・キリストはきょうの個所で、ご自分のところにやって来たユダヤ人たちに対して、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」と厳しいことをおっしゃっています。さて、キリストはこの言葉を通して何をおっしゃりたかったのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 8章39節〜47節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

 前回の学びで、イエス・キリストはご自分を信じたユダヤ人たちに対して、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とおっしゃいました(ヨハネ8:31-32)。

 この「自由」という言葉を巡って、ユダヤ人とイエス・キリストとの間で議論がかみ合わなくなってきます。ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫であって、誰かの奴隷になどなったことはない、と主張します。もっとも実際には当時のユダヤはローマ帝国の属州でしたから、完全な自由を享受していたわけではありません。ただ、それにもかかわらず、自分たちが誰かの奴隷になったことなどない、と主張するのには、ローマ帝国は自分たちの宗教心までも奪うことはできない、という思いがあったからでしょう。それと、何よりも、自分たちの信じる神こそが世界の支配者であるという固い確信があったからです。

 しかし、イエス・キリストが問題とされていたのは、誰の支配も受けないはずの心こそが、罪の言いなりになってしまう罪の奴隷に他ならないという事実です。

 けれども、このキリストの指摘も、心のかたくなな人々には届くことができませんでした。まるでキリストの言葉が全く耳に入らなかったかのように、同じ主張を繰り返します。

 「わたしたちの父はアブラハムです」

 それに対して、イエス・キリストは畳み込むようにおっしゃいます。

 「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。」

 なるほど、彼らの言葉の通り、もし、彼らがアブラハムの子孫であるならば、信仰の父、アブラハムのように生きたはずでしょう。しかし、現実の彼らはアブラハムとは違って、真理を憎み、真理を語るキリストを殺そうとしています。

 では、アブラハムが彼らの父でないとしたら、いったい誰が彼らの父なのでしょう。彼らは答えます。

 「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」

 彼らの言動はなんと矛盾していることでしょう。

 以前、イエス・キリストがユダヤ人に対して、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とおっしゃったとき、ユダヤ人たちは、イエス・キリストが神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたとして、ますますイエスを殺そうとねらうようになりました(ヨハネ5:17-18)。そのユダヤ人たちが、今度は平気で「自分たちの父は神だ」と言い始めるのです。なんと自分勝手な議論でしょう。自分たちの言動こそ、神を冒涜する言葉だとは思わなかったのでしょうか。

 けれども、イエス・キリストは指摘します。ほんとうに神が彼らの父であるとすれば、同じ神から遣わされたイエス・キリストを愛するはずではないか、と。しかし、現実はイエス・キリストを愛するどころか、真理を語るキリストを排斥しようとしているのです。

 では、いったい彼らは誰の子で、誰に属するのでしょう。イエス・キリストははっきりとおっしゃいます。

 「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。」

 この言葉はとても厳しく、耳の痛い言葉です。しかし、真理を語る神の言葉に耳をそむけ、罪の縄目に縛られて、そこから自由になることができない者は、皆、悪魔を父とするものなのです。この悲惨な自分の姿を認めることこそ救いの第一歩です。

 この罪の束縛と悲惨とから、わたしたちを解放するためにこそ、キリストは来られたのです。自分が罪の奴隷であることをごまかしても救いは始まりません。この悲惨な姿の自分を、解放のためにやってきたキリストにゆだねてこそ、救いは始まるのです。

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