聖書を開こう 2014年7月31日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 曇った心の目(ヨハネ7:45-52)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしは緑内障を患っていますが、緑内障という病気は視神経が問題で、視野がだんだん欠けてくる病気です。放っておけば、失明してしまいます。視野が欠けて来れば、すぐに自分で気がつくと思うでしょうが、そうではありません。気がつかない理由の一つは、欠けた視野を、脳が勝手に補ってくれるからです。見えない部分を、こう見えるはずだと脳が修正して表示してくれるからです。これは脳が持っている素晴らしい能力ですが、しかし、病気の自覚症状が出にくいために困った能力でもあります。
 同じことは人間の思い込みにも言えます。一度こうだと思い込んでしまうと、なかなかそれを覆すことができません。覆す証拠が出てきても、思い込みが邪魔をして、ものごとを正しく見ようとはしなくなるからです。

 ヨハネによる福音書の7章を今まで学んできましたが、そこには当時の人々がイエスというお方をどう捉え、どう見ていたかが記されていました。どの人の見方も、イエス・キリストの真実な姿を見ているとは言い難いものがありました。きょう取り上げるのは、その7章の最後の部分です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 7章45節〜52節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」

 きょう取り上げた個所は、7章32節から直接つながっている個所です。そこでは祭司長たちとファリサイ派の人々が、イエスを捕えるために下役たちを遣わしたことが記されていました。その遣わされた下役たちが戻ってきたところから、きょうの場面が始まります。

 下役たちは、自分たちの務めを果たさず、空っぽの手で帰って来たために、さっそくお咎めを受けます。

 「どうして、あの男を連れて来なかったのか」

 この詰問に対する下役たちの答えは、イエス・キリストに対する興味深い彼らの観察を示しています。

 「今まで、あの人のように話した人はいません」

 下役たちは、神殿を訪れる高名な人たちが語る姿を、今まで何度となく目にし、その教えを何度となく耳にしてきたことでしょう。そうした経験を全く持たない人が述べた言葉とは重みが違います。実際、彼らの経験の中で、イエス・キリストのように語った人はいなかったのでしょう。
 では、下役たちは、いったい主イエスの語り方のどの部分に、どんな独特さを見出したのでしょうか。福音書にはそれ以上のことは具体的に書かれてはいません。しかし、イエス・キリストの語り方や教えの内容は、少なくとも下役たちにとっては、イエスに手をかけるのを躊躇させるのに十分なものでした。また躊躇したことを正当化できるほどキリストの話はユニークさを持っていたということでしょう。それは一言でいえば、自分たちを遣わした祭司長たちやファリサイ派の人々よりも権威を感じさせるものであったということです。権威をそこに感じることがなければ、何のためらいもなくイエスをしょっ引いてくることができたでしょう。そういう意味では、この7章に登場する様々な登場人物の中で、一番、キリストを客観的に見ていたのかもしれません。

 彼らを遣わした祭司長たちやファリサイ派の人々も、そこで引き下がりはしません。その理由の一つは、自分たちの権威を保つためというメンツがあったことでしょう。下役たちのとった行動も答えの言葉も、祭司長たちやファリサイ派の人々の権威を、キリストの権威に劣るものとしているのも同然だからです。それを認めることは、彼らにはできなかったでしょう。

 けれども、そうしたメンツの問題もあるかもしれませんが、それ以上に、祭司長たちやファリサイ派の人々には、イエスにはそもそも権威などないという思い込みがありました。ですから、下役たちの答えに対して、間髪入れず、「お前たちまでも惑わされたのか」となじります。

 しかし、下役たちがどこをどう惑わされたのか、逆に自分たちが何をどう正しく物事を判断しているのか、十分な理由が述べられているわけではありません。むしろ、思い込みの積み重ねが、ますます真実から判断を遠ざけているとしかみえません。

 ファリサイ派の人々の反論はこうでした。まず第一に「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」という反論です。つまり、我々の中にイエスの権威を認めた人など誰もいないのだから、イエスには権威がない、という論法です。言い換えれば、我々こそが真理を見分けることができる権威者だという主張です。

 確かに、律法に習熟していた彼らのおかげで、多くの場合、真理を阻もうとする間違った教えから、民は守られてきたのかもしれません。ファリサイ派の人々の功績をすべて否定することはできないでしょう。しかし、我々の中にイエスを信じる者が一人もいないから、イエスには何の権威もないとするのは、思い上がった思い込みです。

 もう一つ、ファリサイ派の人々が述べた反論はこういうものでした。

 「だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」

 律法に熟知し、真理を見分けることができる自分たちと比べて、群衆は律法を知らず、したがって真理には到達することができないために呪われている、というのがファリサイ派の人々の主張です。つまり、下役たちが答えた「今まで、あの人のように話した人はいません」という、その判断が、律法を知らない呪われた民衆に惑わされたものだ、と言わんばかりです。下役たちの判断は、イエスを直接見聞きして出した結論ではなく、イエスの話を聞いた民衆の反応を見て、そう思ったのだろうというのでしょう。これは、民衆に対しても、下役たちに対しても偏見のある思い込みです。

 しかし、ヨハネによる福音書は、すべてのファリサイ派の議員が、同じ考えをもっていなかったこともまた書き記しています。かつて登場したことのあるニコデモはただ一人、慎重な調査を訴えています。ただ、その声すらも、すかさず、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」という声にかき消されてしまいます。しかし、この発言とても思い込みに閉ざされた発言です。

 けれども、実はわたしたちもまた、様々な思い込みでイエス・キリストの真理を阻む過ちを犯しがちなのです。

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