メッセージ: 心の覆い(ヨハネ7:32-36)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人間、一度思い込んでしまうと、なかなかそこから抜け出せないものです。たとえば、こんなことがありました。仕事帰りにふと腕を見ると、時計をはめ忘れていることに気がつきました。しまった職場の机の上に置き忘れてしまった、とそう思いました。ところが、家に帰ってみるとちゃんと腕時計はいつもの場所におかれていました。何のことはない、最初から時計をしていなかったのでした。
いつも腕時計をして出かけ、職場についたらはずして、机に上に置くのが習慣だったために、最初から時計をしてこなかったということに、思いも至らなかったのです。考えても見れば、その日は一度も時計を気にしなかったということにもなります。自分ながらなんとも間が抜けた話です。
さて、きょう登場する人々は、イエス・キリストがはっきりとおっしゃっているにもかかわらず、肝心な部分を聞き逃してしまいます。その肝心な部分は、その人たちにとっては、意味のない言葉、あるいは、ありえないこととして、聞き過ごされてしまいます。おそらくは、彼らの思い込みが原因で、その発言を心に留めるまもなく、やりすごしてしまったのでしょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 7章32節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
前回まで取り上げてきた箇所には、祭りのために集まった民衆たちの、イエス・キリストに対する様々な思いが描かれていました。民衆たちが描くイエス・キリストの姿は、どれも自分たちの一方的な見方や期待を反映させたものにすぎませんでした。
しかし、そうした噂や期待が民衆たちの間に広まる中で、ユダヤ教の指導者たちの間には、イエス・キリストを危険視する思いがますます色濃くなっていきます。5章で学んだとおり、キリストが安息日に病人を癒したばかりでなく、神を父と呼んで、ご自分を神と等しいものであるようにふるまったために、ユダヤ人の指導者たちの間には、キリストを殺そうとする動きがすでにありました(5:18)。その後も民衆の話題をさらうほどのキリストに対して、ますます苛立ちを覚える指導者たちです。
とうとう祭司長たちとファリサイ派の人々は下役たちを遣わしてイエス・キリストを捕えようとします。その彼らに対して、キリストははっきりとこうおっしゃいます。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
このキリストの発言の中で、もっとも耳を傾けるべき点は、まぎれもなく、「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」という発言です。
ヨハネ福音書は、ここに至るまで、何度もキリストを「お遣わしになったお方」について述べてきました(3:17,32; 4:34; 5:23,24,30,36-38; 6:29,38-39,44,57)。そして、今取り上げている7章だけでも、すでに四回にわたって、ご自分をお遣わしになったお方についてイエス・キリストは発言しています。
「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(7:16)。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」(7:18)。「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」(7:28,29)
もし、これらの言葉の一つ一つに真摯に耳を傾けていたならば、今回のこのキリストの発言を決して聞き逃すはずはありません。父なる神のもとから遣わされてきたキリストが、父のみもとへ再びお帰りになる、とおっしゃっているのですから、これほどはっきりとしたメッセージはありません。
しかし、不思議にも、この言葉を耳にしたユダヤ人たちの中には、このキリストの言葉に心を留めようとする人はいません。まるで、キリストが父なる神のもとから遣わされてきたことも、また、もといたところにお帰りになることも、全然耳に入っていないかのようです、
キリストの発言を聞いた彼らの反応は、まったく的外れで頓珍漢なものでした。
「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」
確かにこの当時、ディアスポラと呼ばれる離散したユダヤ人たちが地中海に接する様々な地方に暮らしていました。後にパウロが、こうした各地に点在するユダヤ人たちの会堂でキリスト教を宣べ伝えた通りです。彼らのいうとおり、ユダヤを離れて、いくらでも逃れていく場所はあったことでしょう。しかし、彼らの考えはまったく的外れの一言に尽きます。
実は、このあと、8章22節にも、同じようなやり取りの後、ユダヤ人たちが出した的外れな答えが記されています。そこでは、キリストは自殺でもするのではないか、とさえ思われています。
しかし、それもこれも、そもそもの誤りは、キリストのおっしゃる言葉にきちんと耳を傾けてこなかったからです。イエス・キリストは何度となく、ご自分をお遣わしになった方がいらっしゃることをユダヤ人たちに告げてきました。ご自分がどこから遣わされてきたのか、そのこともはっきりと伝えてきました。しかし、彼らは思い込みでしか、キリストの言葉に耳を貸そうとはせず、思い込みでしかキリストを見ようとしなかったのです。
「ナザレから何の良いものが出るだろうか」、「その父も母も兄弟たちも知られているこの人が、神から遣わされてきた人であるはずはない」
そういう思い込みがあったのでしょう。その思い込みに心が曇らされて、イエス・キリストのおっしゃることを理解できなかったのです。何よりも大切なことは、この心の覆いを認め、この心の覆いを神に取り去っていただくことです。
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