メッセージ: 父なる神を知る人がキリストを知る人(ヨハネ7:25-31)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ある人物についての評価というのは、必ずしもみんな同じではありません。人によって違った評価がなされるというのは、ありがちのことです。それは、評価を下す側の人がみな違っているのですから、その人に対する見方も違うのは当然です。それに加えて、評価を下す側と下される側との間に横たわる関係も、下される評価に大きな影響を及ぼします。良好な関係にある人が、相手に対して否定的な評価を下すはずはありません。しかし、関係が悪ければ、良い評価の言葉を聞くことは期待できません。
さて、きょう取り上げる個所にも、イエスというお方を巡って、民衆たちがどんな考えを持っていたのか、記されています。今回登場するのはエルサレムの住民のある人たちです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 7章25節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
今、学んでいる個所は、イエス・キリストが仮庵祭のために、エルサレムに上って行かれた時の話です。先週に引き続き、ヨハネ福音書の記者は、そのとき祭りに来ていたユダヤ人たちの、イエス・キリストに対する評価の声を記しています。
少し復習になりますが、イエス・キリストの教えと御業のうち、民衆の評判になるような大きな出来事を今までヨハネ福音書はいくつか記してきました。なぜ民衆たちがイエス・キリストに対してさまざまな評価を持つようになったのか、その背景を知るうえで、ヨハネ福音書の記事を振り返ってみたいと思います。
ヨハネ福音書が記す最初の大きな出来事は、カナでの婚礼に際して、イエス・キリストが水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。婚礼に集まった人のうち、どれだけの人がこの奇跡のことを目の当たりにしたのかはわかりませんが、奇跡を見た人たち、特にイエス・キリストの弟子たちにとっては、イエス・キリストを信じるようになるくらい衝撃的な奇跡でした(ヨハネ2:11)。
次に記される大きな出来事は、過越祭のためにエルサレムに上ったキリストが、境内で商売をしていた人々を追い出して、神殿をお清めになった出来事でした。その行動を目の当たりにし、そのとき語られたキリストの言葉を耳にした人にとっては、いろいろな意味で強く印象に残る事件だったのではないかと思われます。
さらにまた、別の機会には、役人の子の病気を言葉だけでお癒しになるという奇跡をおこないました。この奇跡の目撃者の数はそう多くはなかったかもしれませんが、少なくとも役人の家族とこの家に仕える者たちにとっては、黙ってはいられないほどの体験だったに違いありません。
また別の祭りの機会にはベトザタ池のほとりにいた病人を癒す奇跡を行いました。それは安息日に行われた癒しの奇跡であったために、イエス・キリストに対するマイナスの評価を生み出す結果ともなりました。
さらには、わずか五つのパンと二匹の魚から、五千人もの群衆が十分に食べることができる奇跡をキリストはおこないました。この命にかかわる奇跡は、最初、群衆の気持ちを高揚させ、イエス・キリストを捉えて王としようとする者たちまで現れるほどでした。しかし、この奇跡が伝えようとする意味を、キリストの口から耳にすると、ほとんどの群衆がイエスのもとを去っていってしまいました。
今、学んでいる7章に登場する民衆たちが口にする、イエス・キリストに対するさまざまな評価には、こうした事柄が背景にあることを念頭におく必要があります。しかし、きょう取り上げるエルサレムの民衆のある者たちの言葉は、また違った評価の基準を持っています。
彼らは、ユダヤの最高法院の議員たちがイエスに対してとっている態度から、何かを推測しようとします。それは、キリストがユダヤ人から命を狙われるような存在であるにもかかわらず、神殿の境内で公然と語るキリストを放置している議員たちの態度に、何か特別な意味があるのではないかという憶測です。その憶測とは、議員たちはほんとうはイエスがメシアであることを認めているから、公然と語らせているのではないか、というものです。
しかし、この憶測は、民衆自身の口によってただちに打ち消されます。
「わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
少なくともナザレを故郷とし、大工の息子であるような人がメシアであるはずはないというのが、エルサレムの住人たちの考えでした。
しかし、これに対して、イエス・キリストの答えはこうでした。確かに人間的な出身を言えば、彼らの言うとおり、故郷の人はだれもが知っています。しかし、ほんとうにキリストがどこから来たのか、ということを問えば、それを知っている人は誰もいません。ただキリストとキリストをお遣わしになった父なる神だけがご存知です。そういう意味では、イエスはまさに民衆たちの判断に合致したメシアと呼ぶことができるでしょう。
しかし、エルサレムの民衆が、イエスをメシアと判断できないもっとも大きな理由は、彼らがメシアをお遣わしになった父なる神を知らないという点にあったのです。
もちろん、表面的な意味で神を知らないユダヤ人はいません。しかし、キリストがこれまでなさってきたこと、教えてこられたことの中に、キリストをお遣わしになったお方を見ることができなかったのですから、彼らは真の意味で、神を知ってはいなかったのです。
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