聖書を開こう 2014年6月12日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: わたしの肉を食べ、血を飲む者は(ヨハネ6:52-59)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会には、聖餐式と呼ばれる儀式があります。パンとぶどう酒をキリストの体と血に見立てて、信徒がそれにあずかる儀式です。それは、キリストが弟子たちと最後の食事をしたとき、お定めになったことに由来しています。
 この聖餐式の意味を知らない人にとっては、たとえそれがパンやぶどう酒であったとしても、キリストの肉や血液に見たてたものを食べたり飲んだりする儀式は気味が悪いと感じるかもしれません。
 実際、初期のころのキリスト教会は、カタコンベと呼ばれる地下の墓所で隠れて礼拝を守っていたこともあったために、本当に人肉を食べていると噂されることもあったようです。

 きょう取り上げようとしている個所には、このキリストが与える肉を巡っての論争が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 6章52節〜59節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

 ヨハネ福音書の6章には、五千人もの人々に食べ物を分け与えたキリストの奇跡が記されていますが、それとともに、この奇跡の意味がユダヤ人たちとの論争を通して明らかにされていきます。

 前回取り上げた個所には、イエス・キリストが天から降ってきたパンであるという言葉をめぐっての論争が記されていました。ユダヤ人たちがその言葉に躓いたのは、彼らにとって、天からのパンといえば、先祖たちが荒れ野で食べたマンナこそが天から降ってきたパンというイメージがあったからです。自分たちの目の前にいるイエス・キリストは、マンナのイメージからはかけ離れ過ぎています。
 そのうえに、イエス・キリストの両親を彼らが知っていたために、キリストが天から降ってきたパンであるという言葉を受け入れることができませんでした。

 今回取り上げる個所では、キリストがこの天からのパンを「わたしの肉のことである」とおっしゃったことを巡っての論争が記されています。

 ユダヤ人たちはキリストの言葉を聞いて、その言葉の真意をとらえることができませんでした。彼らは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」といって互いに激しく議論しました。

 確かに、それが文字通りの意味であるとすれば、これほどひどい話はありません。人肉を食べさせる教えなど、到底受け入れられるはずがありません。しかし、文字通りの意味ではないとしたら、それはいったいどういうことなのか、彼らにはふさわしい答えが見つかりませんでした。

 しかし、イエス・キリストは、このユダヤ人たちの疑問に、ここでもはっきりとお答えにはなりません。キリストの肉が文字通りの意味であるのかどうか、また、それらを食べるということが文字通りの意味であるのかどうか、あるいは、そのどちらも比喩でしかないのかどうか、イエス・キリストはこの疑問には一切お答えにはなっていません。
 それどころか、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とさえおっしゃいます。

 「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」という言葉だけならばまだしも、キリストの肉を食べたり血を飲んだりすることについてまでも言葉を広げるとなると、そうした発言はユダヤ人たちには耐えがたいものであったことは、簡単に想像がつきます。
 というのは、食肉用の動物の肉についてさえ、血の滴るままで食べることを禁じられていたユダヤ人のことですから、まして、人間の肉となれば、たとえそれが比喩だとしても、受け入れがたい言葉であったことは間違いありません。

 さて、イエス・キリストもヨハネによる福音書の著者も、この言葉の意味をこれ以上説明してはくれません。しかし、少なくとも、この福音書が書かれた時代には、キリストの言葉の意味は明白であったはずです。

 先ほど番組の冒頭でも触れましたが、このイエス・キリストの言葉は、教会の聖餐式を思い起こさせる言葉です。この聖餐式は、キリストが弟子たちとともに最後の食事をしたときに定められたものです。

 その次第は、使徒たちによってこう伝えられています。

 「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリント11:23-26)

 確かに聖餐式で使われるパンやぶどう酒は、文字通りのパンやぶどう酒ですが、それは十字架の上でご自身をささげられたキリストの体と血とを表すものです。この十字架の上でご自身をささげられたキリストこそが、わたしたちに永遠の命を与えることができるお方です。そして、このキリストの肉と血に与るというのは、この十字架のキリストの死が、わたしの罪の贖いのためであったと心から信じ受け入れることです。このことを信仰によって受け入れる者だけが、このキリストが与える永遠の命に与ることができるのです。

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