メッセージ: 父なる神と御子イエスとの関係(ヨハネ5:19-30)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
新約聖書にある四つの福音書は、イエスというお方が神の子であるとしている点で共通しています。しかし、イエス・キリストご自身が、ご自分のことを神の子であるとご自分で証言している個所は、ヨハネによる福音書の他にはほとんど出てきません。
きょう取り上げようとしている個所には、父なる神と御子であられるイエス・キリストとの関係が、キリストご自身の言葉によって語られています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 5章19節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
きょう取り上げた個所は、ベトザタ池での癒しの奇跡の続きです。前々回の学びで、ベトザタ池のほとりにいた長年病を患う男を、イエス・キリストがお癒しになった奇跡について取り上げました。しかし、人々はその奇跡に対して関心を払うどころか、その日が安息日であったことを理由に、イエス・キリストを安息日違反の罪に問おうとしました。その様子を前回の学びで取り上げました。
そのとき、イエス・キリストが弁明しておっしゃったことは、ご自分の父であられる神が今も働いておられるので、ご自分も働くのだ、と言うことでした。
ところが、このことがユダヤ人たちを一層刺激して、神を冒涜する罪でイエスを殺してしまおうという動きにまで発展してしまいます。
きょうの個所は、それを受けて、イエス・キリストがさらに弁明の言葉を述べられる場面です。
イエス・キリストはまず初めに、こうおっしゃいます。
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」
この言葉自体は、この世の一般的な真理を言い表しているとも取れます。「この親にしてこの子あり」という諺にもあるように、子供は、良くも悪くも、親の姿を見て育つものです。人間の子供でさえそうなのですから、神の御子であられるイエス・キリストが、父なる神のなさることをその通りに行ったからと言って不思議ではありません。
前回取り上げた個所で、イエス・キリストはおっしゃいました。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)。
つまり、ご自分の行動の原理は、父なる神の御心をそのままに行うことにあるというにほかなりません。
しかし、イエス・キリストがおっしゃることは、この世の諺のことではありません。ご自分と神との特別な関係を語っていらっしゃるのです。なるほど、旧約聖書の時代にも、神から御心を教えていただいて、神に仕えた数多くの信仰者たちがいました。そういう意味では、彼らもまた神に倣う者たちでした。しかし、イエス・キリストと父なる神との関係は、他に比べることのできない特別な関係です。イエス・キリストはおっしゃいます。
「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」
イエス・キリストだけが、父なる神の愛をこの上なく受け、父なる神の胸のうちを余すところなく知る資格を持ったお方です。この世の誰もイエス・キリストと同じ立場に立つことはできないのです。
確かにイエス・キリストを信じる者たちも、この福音書の冒頭に記されている通り、「神の子となる資格」を与えられた者たちです(ヨハネ1:12)。しかし、それはイエス・キリストが最初から持っておられた父なる神との特別な関係には到底及ぶことの出来ないものです。わたしたちキリスト者が神を父と呼び、自分たちが神に愛された子供であると自覚できるのは、まことの神の子であるイエス・キリストを通して神の家族の一員に加えられているからにほかなりません。
御子イエス・キリストと、父なる神との関係は他に比べることのできないユニークで一体的な関係です。御父と御子とは、意志と行いにおいて緊密な関係を持っておられます。
「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。」
このように父なる神と御子イエス・キリストとの間には一体的で親密な関係があるのですから、キリストを退けて、父なる神だけを信じて救われるということはできません。むしろ、この世においでくださった御子イエス・キリストを通してこそ、救いの恵みと祝福に与ることができるのです。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
イエス・キリストを通してだけ、父なる神と出会うことができ、イエス・キリストを通してだけ、死から命へと今移ることができるのです。
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