聖書を開こう 2014年2月20日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 上から来た者(ヨハネ3:31-36)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ヨハネによる福音書の冒頭部分に「いまだかつて、神を見た者はいない。」(ヨハネ1:18)という言葉があります。確かに神は肉眼で見ることのできるお方ではありませんから、見た者はいないというのはその通りです。
 しかし、それでは神を知ることができないのか、というと、そうではありません。もし、神を知ることができないのであれば、信ずることもできません。知らない神を信じるというのでは、いったい何を信じているのか分かりません。
 神はその時々に、目に見えるしるしや預言者の言葉を通して、ご自分の存在や御心を証ししてこられました。旧約時代に神がなさったと、お語りになったことが不十分だったというのではありません。しかし、それでもなお、ヨハネ福音書の記者は、先ほどの言葉に続けてこう記しています。
 「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
 神の独り子イエス・キリストだけが、神をもっとも鮮やかに示してくださったというのです。それは、今までの啓示とは質的にも量的にも明らかに違ったものだったからです。
 きょうは天上から来られたお方であるイエス・キリストについてのヨハネの証しを学ぶことにします。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 3章31節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が”霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

 前回は洗礼者ヨハネの言葉を取り上げました。それは、やって来るメシアに対して、自分はその道備えをする役割であること、そして、その務めを終えたなら、自分は衰えていく身であることを証しするものでした。

 今回取り上げるのはその続きです。ただし、洗礼者ヨハネの言葉の続きとして読むべきなのか、それとも、福音書記者自身の言葉として読むべきなのか、判断に迷うところです。新共同訳聖書では洗礼者ヨハネの言葉の続きとして鉤括弧にいれて翻訳しています。
 同じような例はすでに3章の16節以下にもありました。このヨハネ福音書は、登場人物のせりふと福音書記者の言葉に、明確な境目をつけることが難しい個所があるということです。

 さて、きょう取り上げた個所には、天からのものと地上からのものとの区別がまず語られます。それは前回取り上げた個所で、洗礼者ヨハネが「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と語っていることと関係しています。

 洗礼者ヨハネは、神に選ばれて、メシアの先駆者としてこの地上に遣わされてきました。そういう意味では洗礼者ヨハネの権威は上から与えられた権威ということができます。しかし、洗礼者ヨハネ自身は天上から地上に降ってきた訳ではありません。他の人間と同じように、地上に属する者です。あくまでも、神から与えられた権威の範囲の中での働きです。天から与えられた権威を超えて働くことはできません。
 その洗礼者ヨハネと比べて、メシアであるイエス・キリストには決定的な違いがありました。

 その決定的な違いの一つは、洗礼者ヨハネが地上から出て地上に属する者なのに対して、イエス・キリストは「上から来られる方」「天から来られる方」として描かれます。天上から来られるお方が、地から出て地上に属する者と違うのは、ただ出所が違うというばかりではありません。
 天上から来られるお方は、「すべてのものの上におられる」という権威の質の違いがあります。洗礼者ヨハネも神からの権威を受けて、メシアの前に先駆者としての務めを果たしましたが、しかし、彼はすべてのものの上にいるわけではありません。彼自身は他の人間と同じように地に属するもののままです。
 それに対して、天からやって来られたお方、イエス・キリストはすべてのものの上に立つ権威です。「すべてのものの上におられる」という言葉が二度にわたって繰り返し語られて、この違いが強調されています。
 また、別な言葉で、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」とも記されています。御子イエス・キリストにはすべてが委ねられているのです。

 さらに、天上から来られるお方と、地上に属する洗礼者ヨハネとの決定的な違いは、語る言葉の質にも表れています。洗礼者ヨハネが「地に属する者として語る」のに対して、天から来られたイエス・キリストは「見たこと、聞いたことを証しされる」と言われます。この場合の見たこと、聞いたこと、というのは、旧約時代の預言者たちが、幻や言葉によって神から聞いて、民に語り聞かせるのとは、質的な違いがあります。預言者というのは、あくまでも、神から言葉を与って語りかけるという意味で、間接的でしかありません。
 それに対して、イエス・キリストは天上で直接見聞きしたことを告げ知らせるという意味で、洗礼者ヨハネや旧約時代の預言者とは質的に違います。天上のことを直接語ることのできるお方なのです(ヨハネ3:12)。

 そういう意味で、神がお遣わしになった御子イエス・キリストは「神の言葉を話される」と言われています。それは単に神の言葉を取り次いだり、解き明かしたりするというのではなく、キリストの語る言葉は、神の言葉そのものだというに等しいのです。
 もちろん、そのことはこの福音書の冒頭で、遣わされてくるメシアが神のロゴス、神のことばとして紹介されていることと密接にかかわっています。

 そこで、ヨハネ福音書は大切な真理を読者に伝えます。それは、この天上から遣わされてきたお方と、どのような関係をもつことが期待されているか、ということです。

 「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

 ここでは、永遠の命と、それとは対極にある神の怒りとが、どちらも現在のこととして述べられているところに目を留める必要があります。
 確かに、わたしちが終末のときに神の国に入るまでは、永遠の命は現実のものとはなりません。神の怒りも最後の審判の時にこそ、もっともはっきりとあらわされるものです。
 しかし、ここでは、御子キリストとの関係をどう持つかで、すでにこの地上で、永遠の命の祝福を先取りして味わうことができるのです。キリストを信じるとき、将来実現するはずの祝福を、この地上で先取りして手に入れることができるのです。

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