聖書を開こう 2014年1月23日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神殿を清めるイエス(ヨハネ2:13-22)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神社やお寺の周りには、参拝者を相手とした商売が栄えます。必要があるところには、それを満たすビジネスが誕生するのは、神社やお寺の周りといっても例外ではありません。エルサレムの神殿でも状況は同じようなものがありました。

 しかし、商売が宗教施設や宗教の持つ意義を見失わせ始めたら、これは本末転倒です。きょう取り上げようとしている個所には、イエス・キリストの激しい抗議の行動が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 2章13節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 きょう取り上げた個所は、神殿を清めるキリストの御業として、他の三つの福音書では、福音書の終わりの方に記されています。キリストが最後のエルサレム入りを果たして、いよいよ十字架におかかりになる週の出来事として、この神殿を清めるキリストの姿が記されます(マルコ11:15以下。おおびその並行個所)。
 それに対して、ヨハネによる福音書では、キリストの活動の初めに、まず神殿を清めるキリストの姿が描かれています。

 イエス・キリストは同じようなことを、活動のはじめと終わりになさった、ということでしょうか。あるいは、二度だけではなく、機会があるたびに繰り返し行っていたのかもしれません。もしそうであるとすれば、なぜヨハネ福音書は最初のものだけを記し、他の福音書は最後のものだけを記したのか、という問いが当然出てくるでしょう。それはわたしたちにとって興味ある問いですが、簡単に答えられる問いでありません。ここでは、時期がことなる二つの似たような話が新約聖書の福音書の中には記されているという事実だけを指摘しておくことにしておきます。

 それはさておくとして、マタイとマルコの福音書の中には、キリストを訴える口実として、キリストは神殿を打ち倒し、3日もあれば建てなおすことができると言っていた、という証言が出てきます(マタイ26:61、マルコ16:58)。ところが、この二つの福音書には、キリストがそのような発言を実際にしたことは、どこにも記されていません。しかし、きょう取り上げたヨハネによる福音書の記事には、キリストの口から出た言葉として、この言葉が記されています。その点もヨハネによる福音書ならではの興味深い記録です。

 さて、話が横道にそれてしまいましたので、きょうの個所に戻って話を進めることにします。

 イエス・キリストは過越祭のときに、エルサレムに昇って行かれます。この祭りには、パレスチナ以外に住む離散したユダヤ人たちも、遠くからやってきましたから、大変なにぎわいであったといわれています。遠くからやってくる人たちのために、神殿の境内では商売が生れました。というのも、何百キロも離れたところから、自分と一緒に犠牲の動物を一緒につれてくるわけにはいきません。神殿の境内でそれを手に入れることができれば、過越祭に来る人たちの負担はずっと軽くなります。
 また神殿で献金として通用するのは、ユダヤの特別な貨幣でした。通用している異邦人の貨幣が献金として使えないのであれば、両替の便宜を図る必要も出てきます。

 神殿の境内で生れた商売は、元をただせば、どれも巡礼者の負担をすこしでも軽くして、神殿での礼拝を快適なものにするためでした。

 しかし、本来の動機というものはいつまでも覚えられるものではありません。そこからすこしばかりの利益が生れ、生活の糧ともなれば、人間の心は神殿での礼拝よりも商売に向かい、巡礼の者たちも、礼拝のために献げなければならない苦労を忘れてしまいがちです。そうして過越祭が形骸化され、神殿での礼拝が形だけのものになってしまうという危険が生れたのです。

 イエス・キリストが問題にしたのはまさにこの点です。

 おそらくキリストの生涯の中で、これほどまでに激しい行動はないでしょう。民衆たちの面前で、イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒してしまいます。これは暴力的ともいえる行動です。

 そのあり様を見ていた弟子たちはそのあまりの激しさに、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と記した聖書の預言の言葉を思い出したほどです。

 もちろん、ユダヤ人たちは、この乱暴な行動を黙ってみてはいません。このキリストの行動に対して、しるしを要求します。

 「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」

 しかし、その要求に対して、キリストはこう答えるだけでした。

 「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。」

 このキリストの言葉は、のちに弟子たちによって、キリストの復活の体を指しているのだ、と理解されました。

 キリストの復活がどういう意味で、神殿の再建と結びつくのでしょうか。確かに、キリストは神殿で献げられる動物犠牲を、ご自分を十字架に献げることで完成させました。今までの神殿での儀式を不要なものとなさったお方なのです。十字架と復活のキリストに結びあわされた者には、もはや、この地上での神殿も、そこで献げられる動物の犠牲も必要ではないのです。キリストを通して、まことの礼拝が完成するからです。

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