おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
地球の環境ということに、人類の関心が向かいだしたのは、この何十年かのことです。地球規模で進む環境の変化は、単なる自然現象ではなく、「破壊」と呼ぶにふさわしい人間の営みに起因するものだ、……そういう意識が芽生えだしたのは、ごく最近のことです。それまでの時代は、自然には無限の回復能力があるように思われてきました。大気にも海にも自然の浄化作用があり、森の木々もまた自然に元通りに戻る力があると、そう信じられてきました。確かに、環境への負担がそれほどでもない時代には、環境の回復能力も心配するほど深刻ではありませんでした。しかし、今はそうではない時代に私たちは生きています。
ところで、きょうは環境問題そのものの話をするために、こんなことを話しているのではありません。環境問題とライフスタイルは、切っても切り離せない関係があるからです。そしてライフスタイルというのは、その人が持っている自然観や文明観におおきく左右されるものです。
実は環境破壊の原因は、キリスト教の世界観にも責任がある、という非難の声をしばしば耳にします。というのは、『創世記』が記す人間の創造の記事では、人間は万物の長として、自然界の支配を任されていると考えられているからです。確かに『創世記』には、神が人間を創造したときに、人間を祝福してこう述べたとあります。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
人間は神から万物の支配権を与えられた、というこの世界観が、自然に暴力を加えることを許し、自然を破壊するきっかけを作ったのだと、そう非難されます。
確かに、自然自体を神々として崇拝する世界観を持つ民族であれば、環境の破壊はここまで進まなかったということはあるかもしれません。それに対して、自然界もまた神によって造られたものであり、人間の支配下に置かれているという世界観であれば、自然界に手を加えることに何の躊躇もありません。そして、そのような指摘はある面で当たっているかもしれません。その意味で、『創世記』のあの言葉の意味、……「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」という神の命令の意味を、もう一度考え直してみる必要があるように思います。
そもそも、あの神の命令は、人間に自然界を意のままに支配することを命じたものなのでしょうか。そうではありません。無責任な暴君になることを神が人間に許したのだ、と思い込むのは、人間の身勝手な理解です。もし、環境の破壊があの神の命令にあるのだとすれば、それは、あの命令自体の言葉にあるのではなく、むしろ、それを自分に都合よく理解した人間の罪にあるといった方がよさそうです。
聖書の人間観では、人間は創造者である神を超えることは許されていません。「従わせよ」「支配せよ」といわれても、絶対の権威者は主である神以外にはおられません。人間は神に対しては僕に過ぎない存在です。ですから、あの命令は、人間に自然界の王になることを許したのではなく、むしろ、神から与えられた自然界を神の栄光のために管理すること、そのことが神の僕である人間に任されたことです。そうであれば、忠実な僕として、自然を管理することこそ人間に求められている大きな勤めです。この世界観を正しく持つときに、自然の利用も自然の管理も、正しく行うことができるのではないでしょうか。